夕方の見知らぬ住宅街を、小学生の彼はぶらぶらと歩いていた。
酒屋のおじさんのいつものアシスタント役をするために、軽トラに同乗して今日はちょっと遠出してきたのだ。
荷受けの商談があるからそこらで時間をつぶしていろと缶コーラを渡されたのだが、このあたりは新しい住宅が多く、人通りはあまりない。どこかで犬の吠え声が響いていた。
その時背後でいきなりクラクションが聞こえた。
どきっと振り返ると、向こうから乗用車が突進してくる。その前に小さな人影が見えて彼は反射的にダッシュした。
間に合え! 今度こそ!
父親を奪った事故。学校にその報せが届いた時、彼は立ち尽くすことしかできなかった。残酷な現実をただ突きつけられた。取り返すことも動かすこともできないまま。
だが今は違う。
焦燥感の中、できる限りに手を伸ばす。
ドンという音が響いてその瞬間、指の先がその感触を捉えた。
かすめて空を切り、しまったと思ったのと同時にわずかに引き寄せた感覚。
「子供だ!」
バンパーに弾かれた丸い形ががちょうど彼の目の高さに跳ね上がった。それを横っ飛びにさらい、子供の体がちょうど収まるように彼の腕に飛び込む。
ぶつかった衝撃がわずかでも抑えられたことで、道路に投げ出されるスピードも落ちたのだろう。抱えた子供は彼の両腕の中で守られた。彼自身も交差点脇の生垣に突っ込むことで痛みは薄れた。
同時に女性の叫び声。数人の足音がばらばらと集まる。彼は急いで抱えた子供を覗き込んだ。
「大丈夫か!?」
その子は自分と同じくらいの大きさのサッカーボールにしがみついていた。何が起きたのかさえわからずに目を丸くしている。が、彼と目が合った途端唐突に笑い声を上げた。
「笑いごとか?」
ぼやいても通じるわけもない。少なくとも痛くもなくすんだのだと、一気に緊張は解けた。
そっと路上に立たせると駆け寄ってきた大人たちがわっと囲む。
「おーい」
離れたところから声がした。なじみのだみ声で。
「どこ行ったー! もう出るぞ」
「おっと」
酒屋のおじさんの呼び声に振り返る。すぐに行かないと。
数歩行きかけて振り返ると、親らしい女性がすごい勢いで子供を抱きしめているところだった。
「ったく、子供から目を離すんじゃねえぜ。あんなヨチヨチの子を」
彼自身幼い弟達を面倒見てきたのだ。当然批判めいた声になる。
「コーラは飲んだのか?」
「あ、置いてきちまった」
というか子供を助けに走った時に飲みさしを投げ出したのだが。おじさんは顛末を聞いて笑った。
「そりゃ残念だったな。冷えたやつを買い直そう。俺も飲みたいから」
おじさんはほめる言葉は一切出さなかった。頭に黙って手を乗せてうなづいただけだった。
ほめる役目は自分ではないと。
今度こそ間に合った。手が届いたのだ。
「起きたら?」
半分苦笑した顔が覗きこんでいた。
「寝落ちしちゃったんだ。中継終わったよ、日向くん」
「…ああ」
まだ目覚めかけの日向は、ソファーの上で半分斜めになったままだ。間抜けな返事になっていることにも気づいていない。翼は正面に立っておかしそうに笑った。
「なに見てるの?」
「その古傷…」
ぼーっとした視線が一点に止まっていた。
「なんなんだ?」
「あ、見えた?」
翼はちょっと恥ずかしそうに前髪をいじった。
「俺、小さい時クルマにぶつかったことがあってさ」
隣に歩み寄った若島津に場所を譲りながら、翼は屈託なく説明した。
「俺は何も覚えてないんだけど、親が言うには持ってたサッカーボールがうまく盾になって、まったくケガもしなかったんだって」
「してるじゃないか」
動こうとしない日向の襟首をつかんでまっすぐに引っぱり上げながら、回収係の若島津はちらりとこちらを見た。
「その時病院でさんざん検査したみたいだけど、確かに傷はなかったらしいよ」
「て、ことは」
いきなり日向がつぶやいたので会話が途切れる。
「後になってケガがわかったのか」
「はい?」
いぶかしむ若島津の手を払いのけて、日向はまっすぐに伸び上がった。翼が抵抗する間も与えず、ぺろりと傷跡をなめる。
「何やってんですか」
「そんな傷、なめときゃいいんだ」
「古傷ですよ?」
さっきまでぐずぐずと転がっていたのが嘘のように、ソファーの上で一っ跳びして駆けて行ってしまう。
とーちゃん、間に合ったよ。
後に残されたのは、路上の飲みかけコーラ。
end
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