● CASE 3 ●
東邦山の上は今日も暑い。
頭のどこかがくらくらするようだ。激しい練習が続く。
走り、ぶつかりもつれ、空を仰ぐ。
若島津の視界がふっと汗ににじんだ。
どきっとする。手が、空だ。グラブがない。腕も剥き出しだ。急いで体を見れば、異状がわかった。ユニフォームが違う。それは、フィールドプレーヤーの姿だった。髪だけは長く、うつむいた肩にばさりと落ちる。
思わず振り返った。ゴールじゃない。彼はフィールドの真ん中にいた。
目の前を斜めにボールが横切る。反射的に走り出していた。前だ、前だ、と声が周囲に沸きあがる。自分の中でも同じように声が響いた。
左に一度出たボールがノートラップで浮き球になった。そこに飛び込む。足の衝撃は脳に直接突き刺さった。
「いいぞ、今のタイミング」
コーチの声に我に返る。ボールはネットの奥にからまっていた。もう一度振り返る。向こうのゴールには赤いユニフォームが遠く見えていた。
日向は半ばパニックになっていた。気がついたらここにいた。手にはグラブ。そしてゴールを背に、彼は一人立っていた。
見覚えのある赤いキーパーウェア。ひじまで上げた長い袖、そして覆われた脚。まとわりついて、重い。
人の動きははるかに遠く、ゴールしたようだ。ボールがセンターに戻される。今度はそれが、はっきりと見えた。右に、左にボールは動き、時に奪い合いになる。
わけがわからないまま、ただそれを凝視する。ボールではなく、目には見えない力の塊が向かってくる。日向にはそれが押し寄せる奔流に感じられた。
「川辺、ライン側から押さえろ! 根岸、マークを外すな!」
自然に声が出た。2年のFWはスピードに乗っているようだが、今なら古田が抑えられる。大きく腕を振り上げながら指示した。
これがパワーだ。人ひとりずつが持つエネルギーの集合体だ。俺はそれをよく知っている。ゴールへと迫るその圧倒する意志。
日向は体じゅうに躍動するものを感じた。
呼応する。それが何かはわからなくても、かっと燃えたつ熱さが全身を駆け巡る。
来た、と思った時には飛び出していた。複数の衝撃。が、それをすべてはねのけてボールを上半身に抱え込む。大きなため息。と共に圧力は去る。エリアの端でボールを力いっぱい投げた。
「なるほどね」
若島津は首をぐるりと振った。コーチの合図で今度はコートが反転する。ミニゲームはリバースだ。まず頭を切り替える。今度は反対側のゴールが標的というわけか。
駆けるピッチはどこまでも自由だ。自由に攻撃の絵を描けるのだ。彼は高揚した。パスが足元に来る。ドリブルしてリターン。同時に空間を探す。
狭い。狭いが途は見えた。ただその前方に、強い圧力がずしりと。なんだこの厚みのある圧倒的な重さは。ピリピリとした危険の匂い。正面のゴールにその姿はしんと立ちふさがっていた。
「あれがそうか」
気づかずニヤリとし、一か八かの組み立てに切り替える。大きく脚を振り切り、オフサイドラインギリギリにボールを送った。そこに走り込むのは反町?
相手キーパーは的確にDFを動かしている。ならば、残る手は――力技か!
反町がはたいたボールがゴールエリア隅へと転がる、その一瞬。
彼は頭から突っ込んだ。キーパーもそこに鬼の勢いで飛び込む。激突。誰もがそう思った時。
時が止まった。と彼は思った。凍りついた、とも。何もない、白い空間で。
「日向さん?」
「…若、島津?」
二人は同時に認識する。そして直感する。自分はここに在るべきでない、と。
立場が入れ替わっているのだ。相手は自分と。自分は相手と。
ゴール前の熾烈なぶつかり合いが、瞬間弾けて。
そこに、仰向けになって日向は笑っていた。若島津も声を上げて。
ディフェンス陣が駆け寄る。遅れて反町も駆けて来た。
「大丈夫ですかっ!」
「へーき?」
笑っている姿を呆然と見つめる。
「日向さん? 健ちゃんも、どーしたの」
「いやすまねえすまねえ。間違えてたな、俺は」
まだ笑いを押さえ切れずに日向がやっと言った。
「ちょっとした間違いだ」
「そうそう」
赤のウェアをパンパンとはたきながら若島津が立ち上がった。くっくっとまだ笑いながら手を貸して、黒いウェアの日向を引っぱり上げる。
「俺はキーパーで、日向さんはストライカーだったんだ」
「なに訳のわかんないコト言ってんの」
反町は不服そうに口を尖らせた。
「暑いからって、ボケてんのか。そんなの当たり前じゃん」
「だな」
東邦山の夏は、まだまだ続くのだった。
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