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 さて、大会も6日目。ベスト4も出揃って1日の休養日を挟んだ次の日だった。
 第一試合は東邦対明和東。小学時代に同じ明和FCで育った選手を擁するチーム同士の因縁の対決となった。が、その中心となる日向はいない。
 東邦は思うようにプレイが運べずに空転した。ゲームメーカーのタケシのクセを知り尽くした明和東に完全に封じられているのだ。
 そして後半、ついに先制したのは明和東。この大会、無失点を続けた若島津からの初の得点となった。
「く、くそう。思うように動けない。やっぱり俺たち日向さんがいないとダメなのか…」
「うう」
 思わず足が止まる。彼らの視線は自然とベンチへ。そこには巨大なトラ、そして監督。両者微動だにせず、そこで異様な波動をピッチに向けていた。
「助けてくれ! トラがワシを…」
 監督は身動きが取れないまま目で必死に訴えていた。
「試合に出さないなら頭から食ってやると!」
 言ってない言ってない。
 代わりに一歩を踏み出して一声、試合会場を揺るがす大咆哮を。
 がおーっとも、ニャアアアとも響くその声に、選手たちは震えた。
「トラちゃん…!」
 小池が涙ぐんだ。
「トラちゃんは俺たちを見守ってくれてる。毎日、朝練で俺たちをあんなに追い掛け回してくれたんだ。だから…」
「そうだ。俺たち走り回って跳ね回って、スタミナアップしたんだ。今ここで諦められるわけがない!」
「日向さんがいなくても俺たちにはトラちゃんがいるんだ、ああやって励ましてくれる…」
 今井が、川辺が、控えFWがつぶやいた。
 トラの咆哮はその一度だけで全員の胸に届いたのだ。
 目に映るものと脳が処理するものに乖離がある。見えているものが実際の姿とは違う、という事態が起きていることに彼らは気づいていなかった。
「そうだ、絶対に逆転する! そして決勝戦にはきっと日向さんが…」
「いるけどな、最初から」
 一人だけ動じていない者もいるが。
「うおおおおっ!」
 唸り声を上げて彼らはピッチを駆けた。そして。
 反町の同点弾、そして音もなくオーバーラップしていた若島津の逆転弾が試合を決した。
「トラ!」
「トラちゃん!」
 ホイッスルと同時に全員がベンチに駆け寄った。幸いにも監督は生き永らえ、安堵のあまり選手たちと共に密かに涙している。トラはベンチの全員を見つめ、「ぐるる」と唸った。



「ふん、来ると思ったよ」
 ピッチ脇の草の上に一人で座っていた若島津が顔を上げた。手入れをしていたボールにまた目を落とし、口元だけ薄く笑う。
「決勝進出、おめでとう」
「とうとう突き止めたってわけか」
 そこに立つ三杉の言葉には応えず、若島津はちょっと暗い目をした。
「半月近く前、部室に現われた。誰にも近づかず、エサを出せば食うだけ食って消えた。愛想のない奴だったがみな妙に可愛がって、練習の時まで一緒に遊びたがった。大会が始まったら始まったでマスコットだと言ってベンチに入れた…」
「若島津…?」
 三杉はいきなり始まった若島津の独白にぽかんとした。そうでなくても口数の少ない彼だと知っているだけに。
「そら、練習再開だ。おまえも見ていくといい」
「え?」
 明日の決勝戦に向けて調整に軽く体を動かすというならわかる。なのに練習?
 三杉は振り返ってピッチを眺め、そして息を飲んだ。
 こちらに駆けてくる選手たちの横に並んで地をえぐるように走っているのは。
「あ、あれは…」
「おまえにはどう見える」
 夏の強烈な日光を弾いてその重量を大地に叩きつけるように駆ける巨大な体躯。白いボールを追い、縦横に躍動する強靭な筋肉。
「ト、トラ! ――いや、あれは」
「大抵のやつはあれはただの猫に見えるらしい。ちょっと体のでかいトラ猫に。だから騒ぎにはなっていないが」
 三杉はただ凝視し続けた。光の中、その姿は何度か動線の中にブレた。ブレて揺れて、形がかき消されてはまた現われる。
「まさか、日向?」
「いや日向さんじゃない。言葉も通じない。――あれは執念だ」
 若島津はそちらを見やりもせずにただ立ち上がった。
「おまえも言ってみれば当事者だ。だから見えるんだろう。ウチの監督とかもな」
 まあ、気のせいだと必死に思い込んでいるようだが。
 口を開いて声は出せず、三杉はきゅっと表情を引き締めた。
「おまえのことだ、もう耳にしてるんだろう? 昔の監督がやってきて投げた言葉を」
 眩しそうに、ピッチに目をやる。
「牙を失った虎だって? ふん、違うな」
 グラブをぎゅっとはめ、若島津は皮肉っぽく笑った。
「吉良さんは勘違いしてる。牙を失くしたんじゃない。牙を必要としなくなったんだ、おまえを食いちぎるためにはな」
「若島津…」
 だからその表現は。
「あれを、飼い慣らされたと言うなら俺も同じだ。だがそうじゃない」
「ガキだった頃、たしかに日向さんは全力で武装してた。監督はそんな日向さんしか見てないからな」
「挑んで敗れて、闘って負けて、その繰り返しの中ですり減らしたものなんてない。あの人自身が虎であり、あの人自身が牙なんだ」
「じゃあ――」
「囚われてしまったんだろうな、その言葉自体に。吉良さんはあの人の絶対だったから」
「君は何を待ってるんだ?」
 トラはここにいる。日向はいない。
「執念だと言ったね? 何に対する執念なんだ」
「さあ」
 肩をぐるりと回しながら光の先を見る。
「勝利に対する執念。闘うことそのものに対する執念。俺にはわからないな、本人じゃなきゃ。それとも自分に対する執念か」
 向こうで誰かが呼んでいた。オフェンスの練習だと言って、Bチームに入るようにという指示だ。若島津は走り去った。ゴールの前に立ち、攻撃を待ち受ける。
 その様子をじっと見ているところへ足音の気配がした。
「淳、ここだったの。何かわかった?」
「ああ、日向はここにはいない」
 隣に立った弥生につぶやく。弥生は小さく首をひねった。
「そう、残念ね。でも東邦もこんな時まで練習だなんて。あら、あの猫ちゃんも練習に加わってる! かわいいー」
 トラは跳ぶ。はちきれんばかりにエネルギーが弾ける。弥生も並んで手を打った。
 三杉は立って、そんな緑のフィールドを見つめ続けたのだった。




 太陽は中空にあった。
 全国中学生サッカー大会の決勝。3年連続の同じカードだ。
 だが東邦学園に日向はいない。
 ロッカールームに重く沈黙が広がる。監督は激励の言葉だけを口にした。整列に向かう時間だ。
 ドアを開けると、選手たちと一緒にいたトラが、ダッとすり抜けて通路の先へと駆けた。
「おーっ、なんだなんだ」
 一足先に集まって整列しかけていた南葛イレブンが喚声をあげて、足元に走ってきた猫に隊列を乱す。
「あ、あれっ? どこ行った?」
「わー、かわいいね」
 その中で声をあげたのは翼だった。
「ええと、噂のマスコットってこの子?」
 抱き上げて腕にぎゅっと抱きしめる。
「つつつ翼!」
「ひーっ」
 一気に悲鳴が弾けた。そこに走ってきた東邦の選手たち。
 全員が凍ったように立ちすくむ。
「ひゅっ、日向さん!」
 南葛の一団の最後尾にいた翼がその悲鳴に顔を上げた。そして全員より遅れて叫ぶ。
「わ、わーっ!」
「うるせえ、黙れ」
 翼がしがみついていたのは日向小次郎だった。
「なんでおまえに捕まらなくちゃならねえんだ。暑い、離せ」
「えええ、どういうコトっ?」
「知るか」
 床に膝をついた姿勢から翼は飛びすさった。そこへ向かって東邦イレブンが押し寄せる。大混乱になった。
「日向さん、日向さん日向さん!!」
 タケシは涙にくれて飛びついた。もちろん他の全員もそうだ。ただ一人を除いて。
「ど、どうしてたんです。いつ帰ってきたんですか」
「わああ、よかったよおおおお」
 もみくちゃである。南葛イレブンも棒立ちになるしかなかった。
「日向さん、ユニフォームこれです。ロッカールームで着替えてください。試合開始、ちょっと待ってもらいましょう」
「え、いや、日向は試合には…」
 北詰監督の声は小さく消えていった。振り返った東邦イレブン全員の瞳孔がいっせいに監督を突き刺し、こう言っていたからだ。「出さないと、おまえを頭から食う!」と。
 若島津の手からユニフォームを受け取り、日向はいったんその場から姿を消した。
「何が、どうなってるのー?」
 翼はまだ呆然と立っている。若島津が横に並んだ。
「日向さんの執念と、おまえの執念、まんまとぶつかったってことだな」
「え?」
 通路の外に広がる光、そして歓声。どんな死闘がそこに待っているかを彼らはまだ知らない。
 真夏の決戦が彼らを迎えようとしていた。








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