「行ったぞ、左だ!」
「えっ」
と思った時にはもう体は宙にあった。
どうと地面に体を打ちつけた後、ちょっと目を回しかけたものの高島はパッと跳ね起きた。ボールはもうずっと前方だ。
「大丈夫か!」
並んで走りながら古田が叫ぶ。少し前に同様に弾き飛ばされた彼は、少なからずふらつきながらも全力の走りを見せていた。
「二手に分かれろ!」
さっきから背後で怒鳴って指示しているのは若島津だった。
「日向さんをフリーにするな! あのまま突進するぞ」
「だから日向さんじゃないって」
古田の言葉は無視された。
「島野さん、そっち頼みます!」
タケシが必死の叫びと共に自らは右ラインに沿って駆け上がる。彼らの前方を地響きと共に駆けるのはボールにじゃれ付くようにフェイントを織り交ぜつつ一直線に疾走するトラだった。
「ひえ~っ」
ゴール近くにいた反町が頭を抱える。が、トラは容赦なく突進してくると同時に力強くジャンプした。まだ低い位置にある太陽の輝きに、その姿が逆光になった。
「ぎゃーっ」
こちらの控えキーパーは両腕で頭をかばってしゃがみこんだ。その頭上を、火を吹かんばかりの轟音が通過してネットに深く突き刺さった。
「がががが」
ゴール前で逆さに転がった反町が意味不明な声を上げていた。
「なななんでトラちゃんと一緒にツインシュートなんてさせられんの!」
誰もがしんと言葉を失っている。震え声でわめいているのはこの男だけだった。
「ボールに触れただけで衝撃が俺の脚にまで来たんですけど!」
「がるる」
その相手は平然とそこに伏せていた。ネットから跳ね返ったボールを前足で押さえて満足そうにこねこねしている。
「おまえもノリノリだったじゃないか」
いつのまに最前線まで来ていたのか、若島津が膝をついてトラの口許に何かを近づける。
「ゴールするたびに、にゃあるを食わすのやめろーっ!」
そう、それは猫ならほぼ全員が飛びつくスティック状オヤツ、にゃあるだった。
「クロスが上がったら反応するのはフォワードの本能なのっ」
「うんうん、おまえも猫の遺伝子があるな。にゃあるをやろう」
「いるかー!」
「ぐるる」
トラが低く唸ったので若島津がはっとその顔を見た。
「はい、はい…なるほど」
じっくりとトラの顔を見てから若島津が立ち上がった。
「島野、もっとライン際に大きく開け。角度が弱いとクロスの精度が落ちる。それと古田と高島、タックルは相手の進路に対してもっとえぐるんだ。威力がまだ弱い。…と日向さんは言ってる」
「えっ」
何人もが思わず声を上げた。
「おまえ、トラの言葉がわかるのかっ、若島津!」
「いや、そんな気がするだけだ」
真面目な顔で言われても困る。
「あのさ、俺は? 俺はどうだって?」
反町が身を乗り出した。
「ジャンプの高さはあれでいいが、インパクトのタイミングが…」
「がおーっ」
話の途中でいきなりの咆哮だ。
「あっ、すいません」
今のは抗議か。若島津は頭を下げた。言い直す。
「ジャンプは高くするに越したことはない。空中姿勢がぶれるのは体幹が弱いからだが、高さがそれをカバーするだろう。たださっきのは結果オーライの面があって、振り足のスピードが足りない分シュート回転がかかって軌道がいい意味で荒れた。ツインシュートの場合はこれが弱点から強みにもなりうるから計算の上ならそれも選択肢の一つだ。そのためにも…」
「ト、トラちゃんがそんな細かいことまでー」
反町のショックは大きい。トラに理詰めで看破されるプレイってどうなんだ。
「おーい、そんなとこで何してる。集まれ! 全員いるのか、早いな」
北詰監督が姿を見せた。実は集合時間の1時間以上前からトラとボール遊びがしたくて集まっていた選手たちなのだった。実に有意義なボール遊びだった。
「よし、まずランニングだ。ね、猫は連れて行くなよ」
めいめいにトラに手を振って選手たちの列は敷地の外周部をランニングしに消えていく。ピッチの境目でそれを見送った監督は、ベンチに下がりながら横目でちらっとトラを見た。
「は、腹を減らしてたりは、しないだろうな」
「んがーっ」
トラは横を向いて大きくあくびした。鋭そうな歯が朝日を反射してギラリと光る。監督は姿勢をピンと伸ばすと、見なかったフリをした。
早くも大会は3日目を迎えていた。シードで1回戦のなかったチームも2回戦で初戦を迎え、全参加校が1回もしくは2回対戦をこなしたところだった。
「おう、三杉、来てたか」
「松山、好調だね」
「ありがとよ」
ふらのは2試合を終え、どちらも快勝していた。
「聞いたかい?」
「ああ、ケガでも病気でもないらしいな」
互いに表情だけで懸念を読み取ったようで、主語は出さない。松山は木陰のベンチを見つけるとそこに掛けた。
「なんかのトラブルとか」
「うん、それがまったく情報がない。関係者に個人的に探りを入れてもみな言葉を濁して口を閉ざす。これは余程のことだね」
三杉も並んで腰を下ろした。
「ただ、見たかい? 東邦の選手たち、揃ってキレがいいんだ。僕が都大会で対戦した時よりワンランクアップしたかのように」
「実際当たってるおまえが言うんだから間違いないな。若島津は無失点だし、俺の目から見ても特にディフェンスの固さはハンパねえ。まるでどっか山ごもりでもして猛特訓したみたいに」
「そんな時間はなかったはずだが」
考え込む2人に、向こうから声が近づいた。
「じゅーん、大変よ、東邦がね…。あらっ、松山くん」
「よう、青葉。いつの間にそんな呼び方に変わったんだ?」
「いいじゃないか、今は。それより東邦がどうしたって?」
キャプテン、マネージャーと肩書きで呼び合っていたはず、と容赦ないツッコミを入れる松山だ。
「私たちよりご自分の心配をしたらどうかしら」
弥生はわざとツンとしてみせた。松山に伝わっていたかどうか。
「それはいいから! 何があったんだ」
「東邦のベンチに…!」
意気込んで2人に向かって身を乗り出す。
「かわいい猫ちゃんがいるの!」
「なんだそれは!」
松山が空を仰いだ。逆に三杉は膝の上に沈没する。
「大きなトラ猫でね。ちょこんと監督と並んでてそりゃもうかわいいのよ」
「…弥生」
特大のため息が出る。
「今僕たちは日向の不在をだね」
「わかってるわ」
弥生は胸を張った。
「それで東邦の部員たちが怪しい行動をしてるってことを言ってるの」
弥生の証言はこうだった。ここの敷地の隣にホームセンターがあり、そこで下級生部員に3年生まで混じって大量の買い物をしていたと言う。
「それがね、手分けしないと持ちきれないほどのキャットフード! 猫缶のウェットもそれに各種にゃあるも!」
「な、なんだって…?」
内容に驚いたのではなく、それが重要情報だと主張する弥生に戸惑う。
「何より、東邦のみんな、嬉しそうなのよ。あれでもないこれでもないと言い合いながら楽しんで選んでるの。ね、変でしょ?」
「…お、おう」
松山も呆然としている。
「あれって現実逃避の一種だと思うのよ。テンションが普通じゃないわ」
「ええと、つまり」
三杉は急いで思考を整理し直した。
「日向の不在に東邦は多大なダメージを受けていて、そこから目を反らすために猫を過剰に可愛がっていると」
「あれはマスコットでもあり、守り神扱い、だわね」
それだけではなく、優秀なコーチでもあるとはさすがに気づいていないようだった。
「でも結局、日向に何があったかは不明なままか」
さあ、何があったのか。大会初日に「日向は一切出さん!」とついに宣言した北詰監督に大きなショックを受けた部員たちが、さっさと背を向けてトラをちやほやしまくったことまでは彼らは知らない。
「で、なんで東邦と鉢合わせたんだ? そんなとこで」
「向こうは気づかなかったみたいよ、買い物に夢中で」
弥生はにっこりしてポケットをたたいてみせた。
「私はいつものにゃあるの補充よ。ね、美子ちゃんたちはどこ? 一緒に東邦の猫ちゃんを見に誘わなくちゃ」
これがキャプテンシー、いやカリスマ性か。トラのご利益は広がるばかりだった。
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