「ねえ、小次郎にーちゃん?」
朝から直子はおねだりモードだった。
「私、今日は休みなんだ」
直子が、というよりバイト先の商店自体が盆休みなのだが。
「プールとか、にーちゃんと行きたいけどお盆だしなー」
お盆に泳ぐと引っ張られる、というのは迷信だが、この家ではそれは確かなことかもしれない。
(そうだぞ、直子。引っ張るぞー。その上思い切り頭ぐりぐりして、たかいたかいだ!)
お父さん、直子ちゃんはもう中二です。
「駄目よ、今日はお墓参りよ」
「わかってるわよー」
すねた声を出しているが、その間も兄の腕にしがみついて離れない。
「おい、直子、暑いだろうが」
「ふふ」
年に2度ほどしか帰ってこない兄に甘えたいのはわかるが、直子には別の思惑があった。
「じゃあさ、お寺行った後、駅前のショッピングセンター行こう? 何も買わなくていいから、トモダチににーちゃん見せびらかすんだ」
ショッピングセンターが休みの中学生のたまり場なのはどこも同じらしい。
「まあ、にーちゃんは有名人だしな」
尊がにやにやと横目で見る。お墓参りで彼も今日は休みを取ってある。
「そうよ、尊にーちゃんと違ってね」
「おい、俺だって傷つくじゃないか」
「しょーがないわ、小次郎にーちゃんが相手じゃ。誰だって勝てないもん」
そうよね?などと言ってはまたなつく。日向も呆れるほどに。
「はいはい、いいから準備なさい。とーちゃん待ちくたびれてるわよ」
(ないない、私はあんな陰気なところにいたくないからな。家が一番さ)
出不精を決め込みたいのは本人がダントツだったかもしれない。二番目に、部屋で宿題にぎりぎりまで取り組もうとしている末っ子と。
賑やかな家族のお出かけだ。兄弟4人と母。そしてそれにいやいやついてくるもう一人。
暑い夏の一日はこれからだった。
さらに年が過ぎた。病室のベッドに、彼女はぼんやりしていた。
「あなたのところに、行けなかったわ」
弱々しく笑う。
「あの時、私思ってた、これであなたに会えるって。…でも駄目だった。子供たちが、私のそばで泣いてたの。幼い頃の姿で。その声が、どうしても耳に響いて、残していけなかったのよ」
(いいんだよ、それで!)
枕元で、涙にくれる姿。彼女の手を包んで、振り絞るように叫ぶ。開いた窓の、カーテンが弱く揺れていた。
(私のところになんて、来ちゃいけない! 君は! ここで生きるんだ!)
血を吐くような叫び。でもそれは誰の耳にも届いていない。彼女は微笑んだまま目を閉じる。
「…征吉さん…セルゲイ」
(まり!)
呼び合う声。聞こえていなくても聞こえているのか。
「もう少しだけ、待っててね。私、こんなにおばさんになっちゃったけど」
(君は綺麗なままだよ! そのまま綺麗なおばあちゃんになって、孫いっぱいに囲まれるまで生きるんだ!)
「とーちゃん…」
指が動いて、手をしっかり握る。握って、握り返される感覚に、彼女はまた目を開いた。
「…誰?」
「ご気分はいかがですか、日向さん」
知らない声、知らない顔だった。
「お子さんたちは、こちらで面倒見ます。安心してください」
「――ありがとう」
ありがとう、知らない人。
小次郎は走り回ってるらしい。金策に、事後処理に。ごめんね。心配かけて、苦労させて。
「セルゲイ」
「え?」
知らない人が聞き返す。隣に、こちらも知らない女の人が立って、何やら耳打ちしている。
「日向は、明日お盆明けに戻るそうです。ゆっくり休んでください」
何だろう。誰かがそばにいる。優しく寄り添ってくれている。また時間が経っていく。
「かーちゃん」
ああ、朝になっていた。今度は、小次郎? それともその目は――。
「かーちゃん、よかった」
「うん、ありがと」
ずっといてくれたのは、セルゲイ、あなたね。私だけが知っている、その目の色。
「金の心配はいらない。若島津が全部立て替えてくれた」
「そんな」
日向は複雑な顔でうなづいた。
「セルゲイさんの、代わりに、って。あいつに、とーちゃんのこと話したっけ」
「どうだったかねえ」
もう遠い記憶だ。父親の帰化の話はしたが、名前は言わなかったような。
「かーちゃん」
もう一度日向は呼んだ。
「元気になれ、早く。俺たち、待ってる」
「うん」
8月の青い空が窓から見える市立病院の大部屋。そのベッドの中で、日向まりさんは、何よりも大切な人たちのことを思い浮かべていた。
END
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