「うまくまけたみたいですね」
航空会社のカウンターを離れて搭乗券を確認した日向は、その声にややぎょっと顔を上げた。
今日日本を発つことはJFAにも伏せてもらっているから、取材陣もファンもそして野次馬も姿はない。カウンターの担当の女性職員が日向の顔を見て感づいたような表情をしていたが、さすがは職務に忠実なプロの顔は崩すことなく一通りの手続きを終えてくれた。背を向けた日向にキラキラした目を向けて今も凝視しているが、本人は頓着していない。
「…いや、全然うまくねえ。出がけにあれこれ絡まれて苦労したぜ」
さすがに当日に自宅からというわけにもいかずに空港近くのホテルに前泊していたのだが、どうやら妹の直子の執念はそんなことでは振り払えなかったらしい。彼女ももう専門学校生だ。自分の意志で兄を追いかける行動力はちゃんとあったようだ。
「いってらっしゃい。元気でね」
ホテルの前でそんなあたりさわりのない声掛けをして直子は両手を振り回し、そして学校へ向かった。家族はこれが普通で当たり前で、何より義務なのだという意思表示として。たとえそれが1万キロの彼方で、あと何か月も会えないとしても。
「まりさんたちにはちゃんと挨拶しましたよね」
「昨日ちゃんと話をしてある…っていうかおまえ人の親を名前で呼ぶな!」
だからといって母上様と呼ぶわけにもいかないし…と言い訳することなく若島津は知らん顔をして話題を変えた。
「今回滞在期間もゆっくりとれたのはよかったですが、今シーズンから完全移籍に戻って、レンタル先の町から引っ越さなくちゃいけませんよね。その準備はしてあるんですか。クラブ側がやっといてくれてるとか?」
「ああ、それか」
日向は振り返り、それからニヤリとした。
「なんだかんだで居心地がよくてなあ。とりあえず引っ越さないでおく」
「はい?」
日向がずっと過ごしてきたレンタル先のクラブは2部リーグのアットホームな町にある。そして何より、今回戻る移籍先とは海を隔てているのだ。
「引っ越さないで住み続けるってことですか? 町内会同士の移動じゃないんですよ」
それとも自家用機かクルーザーで通勤するというのか。断じて日向のガラではない。
「南の島っていうのが俺に合っててなあ。沖縄に似てて。しかも沖縄よりずっと辺境で」
「まあ、そうしたいなら止めませんよ。言ったってきかないだろうし」
遠い目になる。しかし日向は逆にそんな若島津に問い返した。
「ところでどうした、今日は。お前空港に見送りなんかいつもほとんど来ねえだろ」
「ああ、見送りじゃありません。俺、失業者になってしまったもんで」
態度には出ていないが、これがこの直後に日本を揺るがした大激震の予兆だったことを、この時日向は実感していなかった。
何しろ当事者の一人であるこの男自身がリアクションが薄いから困る。
一応、周囲には聞こえないように声を低めたが、これが日本で初、というか以降も類を見ない大事件の一端だったのだ。確証はないが世界のサッカー界でも事例はほとんどないはずだ。当時就任していた外国人監督が伝えられてその意味が理解できずに日本語の辞書を調べたほどだ。
まあその背景はともかく、クラブチームがひとつこの世から消え、ここに一人の浪人が爆誕していたのである。
「おい、ちょっと待て。だから俺についていく? おまえが?」
彼らの年代の中で一番早くJリーガーとなった彼は、何の運命かこれまた一番にJリーグをやめたことになる。
この便は中東を経由地として乗り継いでのイタリア行きだ。クラブの手配でビジネスクラスが用意されている日向は、エコノミーと分かれる通路の最後の最後の場所でまだごねていた。
「こう言っちゃなんですが、定職がなくても人生は修行だと思えばなんてことありません。あんたの家に置いてもらえるなら行幸。でなくても住まいは何とかなるでしょ」
「いや、修行だのなんだの悟ってねえでサッカー続けろよ! Jリーグのどっかからオファーくらいあっただろ!」
「修行もあなどれませんよ。あんたがイタリア向かってから実感しました」
「お、俺が何だってんだ。ウチのクラブに便乗を狙ってんならーー」
「いえ、そんなつもりはありません。安心してください」
「安心できるわけねえだろ!」
日向は抵抗していたが、若島津が言う修行はそんなスケールではなかった。黙して語らなかったが。
「夏休みの観察日記、ありましたよね。あれ得意だったんですよ」
「なんだって?」
話はいきなりおかしな方に飛ぶ。
「じっくりとこれでもかと観察に観察を重ねて人生修養するんです」
説明はそれですべてだった。もしこれ以上続けても理解は不可能だっただろう。
サッカーの修行でも空手の修行でも、異文化交流の修行でもなく。
ある意味、サッカーを極めるより遠い道があるというのは若島津にとって至高のことだったに違いない。反面師匠。共に寄り添って眺めるにはこれほど面白い対象があるだろうか。
「俺は朝顔じゃねえからな!」
相手には永遠に理解できなかったにしても。
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