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 日本中で、いや、世界各地で危惧されていたことが現実になってしまった。
「…」
「…かずお、和夫!」
 枕元で大きな声を出す。ぼんやりと目を開けて、その目だけが横に頼りなげに動いた。
「よかった、和夫。気がついて」
「…」
 すぐに看護師と医師が呼ばれる。簡易検査機が外された。
「大丈夫か。わかるか?」
 口が僅かに動くが声は出ない様子だ。
「…」
「ほんとにおまえ…」
 手を強く握る。
「…あ」
 和夫はぼんやりと天井を見た。がばっと政夫は顔を寄せた。まだ包帯に覆われネットを被せられた頭で、もう一度こちらに目を向ける。
「…誰?」
 しかしその口から出たのは思わぬ言葉だった。
「あんた誰なんだ?」
「和夫…!?」
 政夫は言葉を失った。
 すぐに駆けつけた両親と妹とも涙の対面をし(涙は本人以外だった)、医師からも一時的な意識の混濁だからと言われたものの、政夫は暗いままだった。
「にい、ちゃん?」
「お、おう」
 教えられて兄だと認知はしたもののやはり記憶はまだら状態で、双子だと聞いて驚くほどだった。
 まだ手の中の箸は四方にでたらめに動き、水分は一口ずつしか飲み込めない。それらにも気を配り、政夫はこまごま介護した。十分に言葉の出ていない和夫の言うことを看護師に口ぞえし、言いたいことがさすがにあなたにはわかるのねと感心されたりもした。
 何より、サッカーのことをほとんど思い出せず、政夫を悲しませた。あの時の、事故のことも。
「緊急手術は成功したし、障害もゆっくり戻していけるらしい」
 病院に駆けつけた代表仲間にはそう説明したが、それでもやっぱり政夫は沈んだままだった。
 それに加えて、父親に言われたことが心にひっかかっていたのだ。
『いや、親戚やら近所の人がうるさくてな』
 父親はこっそり事情を教えてくれた。
『迷信みたいなもんだから、おまえたちは気にしなくていい』
「姓名判断って、この時代に」
 本当に迷信だ、と政夫はつぶやいていた。



 包帯がとれた頃には髪もだいぶ伸びてきていた。ベッドで起き上がったり、短距離ならゆっくり歩けたりもした。身体的なリハビリに並行して思考的な訓練も進められ、日に日に成果を見せつつあった。
「まだ坊主が伸びたくらいだな」
「すぐに元通りになるさ」
 元通り。それは常に目の前に目標として存在した。瓜二つな、もう一人として。
「なあ、にいちゃん」
「なんだ?」
「俺、いつになったらにいちゃんのこと思い出せるんだろうな」
 いつになく真面目な顔で、和夫は言った。まっすぐな目で。
「にいちゃん、俺事故のこと聞いたよ」
「和夫!」
 はっと顔を上げる。
「全然、にいちゃんのせいなんかじゃないじゃんか」
「いや、それは…」
 政夫はそれ以上何も言えなかった。和夫の目が、次第に悲しそうな色に曇っていったからだ。
「なのににいちゃんは今もそう思ってる。今もフタをしてるんだ」
「…」
「俺が飛んだのは俺が飛びたかったからだ」
 和夫はそれだけぽつんと言った。



 数ヶ月が過ぎるうちに、和夫はすっかり色白になっていた。まあ、一般の基準で人並、だったが。髪は元の長さよりむしろ少し長いくらいで、なぜだかストレート気味に少し枕の方向に寝癖がついたままだった。
 和夫は手鏡を覗きながら不満げに言った。
「思ってたのとは違うな」
「そのうち床屋にも行けるだろ」
 双子らしさが薄れるようで政夫は内心気にしていたが、看護師たちの間では有名双子として認知されているのか、仲のいい兄弟ね、とよく言われていた。
「にいちゃん。親父の話ってなんだったんだ?」
「ああ。たいしたことじゃないんだ」
 もうとっくに打診されていたということは政夫は言えなかった。
「ほら、心機一転って言うだろ。おまえも新しい人生やり直すつもりで」
 政夫はこうして改名のことをようやく話した。親戚一同の総意だと。
「俺はどっちでもよかったんだが、まあ願掛けっていうならそれで」
「新しい人生…?」
 和夫は口の中で繰り返した。それから目を上げる。
「俺、だんだんサッカーのこと思い出してきたよ。学校の仲間や代表の連中――。景色が見えるんだ、緑のフィールドと、青い空と、みんなの顔」
「ほんとに?」
 和夫の目に、力がある。政夫は目を見開いた。
「俺は」
 その顔を和夫はまっすぐ見た。
「新しい人生は必要ない」
「えっ」
「にいちゃんがにいちゃんを許すなら。自分を責めるのやめるなら、それで」
「和夫」
「そう、俺は和夫だ。そして、にいちゃんは、誰だ?」
「…」
 しばらくその顔を見つめて、下を向く。涙が落ちた。
「うん、俺は政夫だ」
「だよな」
 和夫は泣き笑いした。




 見舞いに来た松山光は、不満げだった。
「ハヤテにハヤトだと? まさか妹はハヤブサとか言うなよ」
「妹は関係ないよ。もともと小町だし」
 政夫と和夫は同じ顔で笑った。



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