「――日向さん」
高い叢が確かにどこかで揺れた。
その音だけが校舎に反響した。月は既に高い。
「どこですか。返事してください」
だがとうとう声はなかった。
潜めたような気配だけが草の間にあった。
「淳、どうかしたの?」
部室に入ってきた弥生は中央の大きなテーブルにトレイを置くと、壁際のベンチで一人ノートを開いて難しい顔をしている三杉を振り返った。
「温かい麦茶よ。どうぞ」
「ああ、ありがとう」
まだどこか上の空の様子で三杉は顔を上げた。ノートは開いたまま膝に置く。
「もうすぐに全国大会だろう? 各チームの有力選手などをピックアップして分析してたとこなんだが…」
「ええ、それが?」
湯飲みを手渡しながら先を促す。
「東邦の様子がおかしい」
「えっ?」
「都代表に決まったあと大会前最後のテストマッチに日向がいない」
少し視線を外す。都大会でその東邦に敗れて代表をのがしたのは彼らなのだ。弥生はその横顔を見ながら足を止めた。
「風の噂だが、どうやら日向は不在らしいんだ」
「まあ」
たとえテストマッチであれ、主力の日向が試合に出ないのは不自然だ。戦力面でももちろんだが求心力としても。それがチームにいない?
「小耳に挟んだところによると、あの決勝戦の直後に、日向の昔の恩師が現われてひどく叱責したというんだ」
「え、何を?」
問う弥生をまっすぐに見て、三杉は小さく苦笑した。
「プレイ中、なぜ僕の心臓を蹴破っていかなかったのか、と」
「う」
弥生は口を急いで押さえた。
「さ、さすがは日向くんの恩師ね。ずいぶんと思い切ったことを」
「笑いごとじゃないよ? 引き合いに出さないでもらいたいよ」
「表現はともかく、その恩師さん、あなたがたやすく蹴破れないことだけは知っていてほしいわね」
三杉は反論を諦めてノートに目を落とした。
部室前の廊下から馴染んだ大声が近づいてきた。3年生部員の幾人かが小さくため息をついて立ち上がる。
「まだ日向は戻らんのか!」
「はあ、連絡すら取れないままなので」
「大会は明後日からなんだぞ!」
怒号は北詰監督のものだった。
若島津ははいその通りで、としか答えようがないのでとりあえず黙っていた。
「まったくこんな時にあいつは…。キャプテンの自覚はないのか!」
怒鳴りながらふと部室の前に目をやった彼は、さすがに不思議そうにした。
ドアの前に置かれたそれは、陶器製のさしわたし30センチほどの容器だった。ペットフードが山盛り入っている。
「――エサ? 入れ?」
「ああ、それは」
言いかけた若島津より先に島野が言った。
「こないだ野良を拾ったんで、部で飼うことにしたんです。そいつのエサです」
「何をやってる、こんな時に。おまえら弛んだことを…」
監督の言葉はそこで途切れた。背後から近づいたそれは明らかに不穏な唸り声だった。
「がるる」
「ひっ」
飛びすさったその足元に音もなく近づいたのは一頭の巨大なトラだった。監督には目もくれず、エサに食いつき始めた。
「ああ、おなかすいてたのか、ゴメンゴメン、遅くなって。たんと食べな」
「水もあるからな」
横からそーっと水の容器を滑らせる松木だった。
「今日はドライしかなかったけど明日はウェットフードも入荷してもらえるからな。楽しみだ」
「ト、トラじゃないか、これは!!」
監督は10メートルほども離れた位置から少々震える声で言った。
「え、猫ですよ? まだ野良が抜けてませんけど」
タイミングよく顔を上げたトラと目が合いそうになって、監督はさらに数メートル後ずさった。
「こ、購買部にこんなものまであるのか」
「はい、けどこいつ大量に食うんで追加注文したとこです」
「よしよし、チョイチョイ」
猫じゃらしのつもりなのか部のタオルを床の上で振っているタケシだが、そのタオルの端がグシャグシャに噛みちぎられているのを目にして監督は一歩二歩とさがりつつ話はそこで切り上げることにしたようだ。
「…じゃ、明日。みんな朝練には遅れるな」
「はい!」
良い子の返事が重なる。トラは容器のキャットフードをきれいに平らげると今度は水を飲み始めた。
それを温かく見守りながらタケシはため息をつく。
「早く慣れて、触らせてくれるといいなあ。抱っこしたいです、ぼく」
「だよなあ」
部員たちが見守る中、トラは満足したのか身を翻して廊下を飛び出していった。
「あっ、日向さん」
若島津はじっと立ってトラの消えた闇をただ見ていた。
「おいおい、若島津。勝手な名前付けるなよ。名前はみんなで決めるんだからな」
笑い混じりに誰かが言った。若島津は少しの沈黙の後、ぎろりと振り返った。
「絶対、日向さん」
「…まあ、トラ柄だしな」
エサと水の容器を回収しつつ小池が苦笑した。なおこの2つは小池の私物の花器である。
「名前、シンプルにトラちゃんでよくない? あの模様なんだし」
「ダメ、絶対。日向さんだ」
のしのしと寮方向に向かう若島津だった。
「弥生、なぜそんなものを…?」
三杉はあっけに取られた。はるばるやってきた埼玉の日向の実家。その玄関先で。
ポケットから出した猫用液体オヤツを3本同時に手に持つ弥生は、家の中でごろごろともつれ合い戯れる3匹にそれを差し出そうとしていた。
「いつも持ち歩いてるの。いつ出会ってもいいように」
玄関先と言っても、玄関の引き戸を開けると1歩分のたたきの先がもう座敷である。その畳の上に3匹がいて、それ以外は無人だと知った2人だったが。
「はいはーい、仲良くね。みんなの分、ちゃんとあるからねー」
スティック状のパウチに争うようにかじりつく3匹に、弥生は目を細める。にゃあるにゃあるネコにゃあると口ずさみながら、その旺盛な食欲についつい笑顔になる。
「い、いや、そうじゃなくて」
三杉のほうは引き気味だ。
「それ、猫じゃないように見えるんだが」
「え? 猫でしょ。じゃなきゃなんだって言うの?」
「え…と、トラの赤ちゃん…とか」
「やだ、まさか」
弥生は笑う。今度はバッグにつけたストラップでじゃらし中だ。ススススと息を鳴らすと3匹も似た声を上げてますます元気にじゃれまわる。
「こうすると子供の時のお母さんの呼ぶ声を思い出すんですって」
「いや、子供の時って言うより今が子供なんじゃ」
猫にしては面長だし、顔の縞模様も黒に近く鮮明だ。足も大きいし、何より、さっきからギャアギャアとしゃがれた声を上げている。
「ああ、日向さんとこの奥さんならまだ仕事だよ。子供たち、留守番しててエライよねえ。え、一番上のお兄ちゃん? お盆には帰って来るんじゃないかい。しばらく見てないけど」
近所の人への聞き込みでも何の異変もないようだ。少なくとも日向は実家には顔を出していない。
「せっかく足を運んだのに手がかりがなくて残念だったわね」
「例の恩師という人、沖縄でサッカースクールをやっているそうなんだが、電話したところ行き先に心当たりはないって。一応誘ってはいたらしいんだが」
「沖縄じゃ、遠いわよねえ」
手がかりなし、と言っていいのかどうか。三杉は頭のどこかに何か奇妙な引っ掛かりを感じていた。
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