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1・窓





 その家は父さんの祖父母、つまり僕から言うと曽祖父母の家だった。二人が亡くなってからは親戚の人が管理していたそうだけど、その人も後に亡くなり、父さんに託されたと。
 それまでは二人きりで小さいアパートに住んでいたので、その家は平屋だけど部屋がいくつもあって、古くて探検しがいのある家だった。
 そう、僕は小学校を休みがちだった。体が弱くてしょっちゅう熱を出していたのもあるけど、休むから馴染めず、馴染めないから休むの繰り返しで、昼間は一人で家で過ごすことが当たり前になっていた。
 この家は同じ市内にあり、それまでの小学校からはむしろ近くなって少々気まずかった。父さんは逆に駅から遠くなった分、通勤のバスは早くなった。
「太郎、具合は今日はどうだ?」
「あ、あの、ちょっとまだ熱っぽくて。…でも明日はたぶん学校行けると思う」
「そうか」
 父さんのいつもの淋しそうな顔だ。僕が学校に馴染めないことを気にしている。でも父さんは一度も僕が学校を休むことを責めなかった。ただ悲しそうにするだけで。
「一人にしてすまないな。夜までちゃんと大人しくしてるんだぞ」
「うん、行ってらっしゃい」
 僕は3年生だった。母さんはいない。僕がうんと小さい頃に離婚したんだって。淋しくないと言えば嘘になるけど、父さんはいつも僕を大事にしてくれる。病院に行くために会社を休むことだって。
 その日、しばらくは寝床にいたけど結局飽きてしまって、家の中を見て歩くことにした。座敷の奥に知らない部屋があって、物置代わりにしていると父さんが言っていたことを思い出した。覗くと使わない家具とか隅に寄せてあって、何か古臭い匂いがした。
 窓が一つあって、他の部屋のようなサッシではなく昔風の木の枠だった。ほこりっぽくて、僕は窓を開けようとした。ちょっと開けにくい…?
 やっと開けられて、僕はびっくりした。昼間なのに霧が濃い。外がぼんやりとしか見えない。裏庭らしいところは狭く、すぐそばが生け垣だった。
「あ、晴れてきた」
 霧はゆっくりと晴れはじめ、視界が開けていった。今度こそ僕はぽかんとする。
 生け垣の向こう一面に、緑の田んぼが広がっていた。その向こうに小さな林もある。そんなはずはない。ここらはただの住宅地で、家の周囲は個人宅で埋まっているはずだ。僕はしばらく呆然とし、あわてて窓を閉めた。なんだこれ。夢でも見ているのだろうか。
 ぱたぱたと自分の部屋に駆け戻り、ふとんをかぶった。意味がわからない。あれこれ考えているうちに眠りに落ちて、目が覚めると夜だった。父さんには何も言わなかった。
 次の日は学校に行った。ずっとあの窓のことを考えていた。家に帰って、ちょっと迷ったけどもう一度あの部屋に行った。
 窓の外はまた霧だった。少し待って見えてきたのは今度は違う景色だった。広い野原。向こうに向けて下り坂の道がある。枯れたような草木がどこまでも。
 はっとする。昨日見たのはまだ青々とした田んぼだった。それが今度は枯れ草だ。季節が、おかしい。やっぱり夢なのか。それとも魔法?
 僕は、今日も父さんには話さないことにした。
 それから毎日のように窓の外に夢中になった。学校に行く日も休む日も。
 朝でも夕方でも、窓は知らない景色を見せてくれた。1回限りのことも同じ場所が何日も続くこともあった。そこでは遠くに人が歩いていたり農地で作業していたりした。軽トラが通ったり向こうに電車が横切ることもあった。実際の天気に関係なく晴れたり雨が降っていたりした。ずっと向こうに山がある。大きな川が流れていたりする。だんだん僕はそれが不思議に思わなくなっていた。
「ねえ、キミ。ここんちの子?」
 ある日、生け垣の向こう側からそんな風に呼びかけられた時はさすがにびっくりした。
「ボールが入っちゃったみたいなんだ。庭に取りに入っていい?」
「う、うん」
 初めて聞く訛りがある。もちろん知らない子だ。
「そこの木戸から入れるよ」
「ありがとう!」
 ちょっと学年が下っぽいその子はボールを見つけて礼を言った。
「キミも遊びに来ない? あっちの河川敷でサッカーやってるんだ」
「えーと今日は熱があって…」
 僕はちょっとしり込みした。学校でも遊びの輪に入ったことはほとんどない。誘われるなんて初めてかも。
「そっかー、じゃあしかたないね。治ったらいつでも来て」
 そう言って走って行ってしまった。
 話をした。ただ景色を見るだけじゃなく、ほんとに人がいて話せるなんて。
 残念ながらその川沿いの景色はそれ1日きりで、その子に会うことはもうなかった。
 でもそれからも窓は色んな景色を見せ続けてくれた。誰もいない森の中や、遠くに町らしい家々が見える場所。わりと近くに天守閣らしいのがあった時はちょっと興奮したりした。
「いったい何なんだろう」
 家の中で唯一北を向いた小さい窓。庭に回って確かめたこともあったけど、家の裏側はやっぱり住宅が続くばかりで生け垣の向こうには小道すらない。振り返って見てもただの普通の窓だ。
「そうだ、向こうに行けるかやってみよう」
 勇気がいったけどそれよりドキドキが勝った。靴をそっと持ち出して窓枠に上る。その日はちょっと古めかしい町並みがある通りに面していた。靴を履いた足でそーっと降り立つ。周囲を見回してから木戸を出た。
「やった」
 僕は「その」町に立っていた。成功かな。
 と、向こうから子供の声がわいわいと聞こえた。生け垣が途切れる角に近づいてそっと覗いてみる。何人かがこっちに歩いて来る。あわてて隠れたけどその動きがかえって目立ったみたい。
「あれえ、誰だ。見たことないやつだ」
「転校生?」
 一気に囲まれる。僕はあせった。
「そーかー、それなら学校案内してやろうか。すぐそこだよ?」
「何年?」
「さ、3年」
 男の子たちは騒ぎながら僕をぐいぐい連れて行く。着いた学校はもちろん知らない学校だ。校門は閉まってたけど脇から広い校庭が見えた。
「俺たち4年なんだ。こいつの弟が3年だから仲良くしてやってくれな」
 学校の前で別れる。弟がいる子が大きく手を振った。
 次の日も同じ町が見えたので僕はまた靴を履いて外に出た。自分の学校は休んで知らない学校に行くなんてうしろめたかったけど。
「転校生の岬太郎くんだ。みんな仲良くしろよ」
 驚いたことに本当に転校生ということになっていた。先生も普通に受け入れている。僕はおどおどしながらもその日を何事もなく過ごした。
 そして次の日も。父さんは朝ちょっと不思議そうにしていたがそのまま出勤した。
 知らない学校で授業に出るのは大変だった。でも最初に会った子の弟は同級生ですぐに仲間に入れてくれた。強引にサッカーに誘われたりしたのは半分迷惑だったけど。
「みさきー、おまえサッカーやったことないの?」
「う、うん。授業でちょっと習ったくらい」
「そのわりにいいキックだな。俺のほうに入れよ。人数足りないから」
 実はルールだってよく知らない。でもみんなと走り回ると楽しかった。息は切れたけど。何人もが声をかけてくれて、それが一番新鮮だった。
 珍しく1週間ほど同じ景色が続いて僕はその学校に通ったけど、それも突然消えてしまった。別の景色になったのだ。ちょっとがっかりもしたけど夢ならしかたない。新しい町で、僕はまた無責任に転校生になった。
 景色は変わる。海辺の町になったり、牧場のある町の小さな学校だったり。そう、僕はごく短期間の転校生になり続けた。ずるい手も覚えて、本当の学校に行ってから夕方に窓を出るとそちらも放課後で授業は出なくてすんだ。
「太郎、最近顔色がいいな。学校も行ってるみたいだし」
 父さんはなんだか嬉しそうだ。僕はますます秘密を打ち明けにくくなったけど。少し元気になったとしたら毎日放課後に遊んでいるからだ。それまで友達らしい友達もいなかったのに、夢の中では野球をしたりサッカーをしたりそこらをただ駆け回ったりしてその分ちょっと元気になった気がするんだ。友達も短い間の友達だけどたくさんできた。お別れも言えないのだけは残念だった。
「うーん、確かここらに昔の置き薬の箱が…」
 ある夜父さんが腰を痛めたと言って湿布薬を探していた。買い置きが切れててこの家の昔の住人が残して行ったものを最後の手段だと言って漁っている。
「古くてもないよりましだからな」
 そしてとうとうあの物置部屋の押入れが開けられた。ごちゃごちゃした中に置き薬は見つかった。ひやひやしたが父さんはあの窓には見向きもしなかった。
「あれ、これは?」
 置き薬のあった押入れの中に、その古そうなスケッチブックはあった。父さんが振り返って苦笑する。
「ああ、こんなところにあったのか。もうとっくに処分したかと思った」
 遠い町に引っ越して行った祖父母が荷物減らしに置いて行ったんだろうと父さんは複雑そうに言った。捨ててよかったのにと。
「わしの学生の頃のだよ。父さんな、芸大生だったんだ」
 ええ、知らない、そんなこと。どう見ても普通にサラリーマンなのに。
「わしは山の景色が好きでな、遠いところでもあちこち出掛けてスケッチしてたんだ」
 そして父さんはいい機会だと言って当時の事情を教えてくれた。言いにくそうに。
「おまえの母さんは音楽科でな。おまえができた時も二人とも貧乏も貧乏で。父さんは決心して大学を辞め、就職した。一家で暮らしていけるように」
 それが母さんとの亀裂になった、と父さんは言った。諦めてほしくなかった、というのが母さんの主張だったと。そこから色々あって二人は元には戻れなかったんだ。
 父さんは湿布を貼ってのろのろと行ってしまった。僕は父さんが置いていったスケッチブックを開いた。どれも山の景色だ。裏にいちいち山の名が鉛筆で書いてある。ぱらぱらとめくって手が止まった。
「これ!」
 鉛筆描きのスケッチで色はなかったけど僕はすぐわかった。窓からいつか見た景色だったのだ。急いでめくると次々に知ってる景色が見つかった。学校に通った町も出てきた。改めて見ると、気がつかなかった山が必ず描かれていた。名前を見ても知らない山ばかり。
 僕はスケッチブックを置いて窓に駆け寄った。開けると霧だった。いつものようにすぐ晴れることはなかった。
 全部、父さんの絵だったんだ。夢でも魔法でもなかった。父さんが昔、描こうとした景色、実際に描いた景色だったんだ。
 そこに僕が入っていけたのは、僕も父さんの魔法なの?
「父さん!」
 追いかけてって背中から飛びついた。
「ねえ、明日日曜だから一緒にどっか行こう。連れてって、父さんのいいと思う所ならどこでもいいよ!」
「どうした、太郎。おまえが自分から出掛けたいなんて」
 いててとつぶやきながら、それでも父さんは笑った。山のある景色を、父さんは選ぶだろう。どこだっていい。知らない町、知らない人ばかりの町でも僕はうれしい。父さんと一緒なら。
 窓は、もう何も見せなくなった。僕ももう窓は開けない。だってその家、引っ越したから。父さんは僕とたくさん話をして、とうとう会社を辞めることにしたんだ。
 もう一度山の絵を描きたい。父さん、会社にそう言ってぽかんとされたんだって。たくさん描いてね、富士山だっていつか。
 僕はついていく。僕のために夢を諦めた父さん。もう一度、夢を追いかけてほしいんだ。たくさんの山が、待ってるだろうから。
「おーい、そこのキミ。ボール取ってくれる?」
「いいよー。僕も入っていい?」
 晴れた日の土手の上、絵を描いてる父さんの横で僕は転がってきたサッカーボールを拾い上げる。
「太郎、おまえいつの間にそんなに…」
 父さんはびっくりしてたけど、僕は手を振り返してから走って行った。友達はかならずどこにでもいる。父さんの旅は僕の旅だ。
 知らない町が、僕を待っている。




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