パリ北駅の2階コンコースで、岬は棒立ちになっていた。
「なんで君がここにいるのーっ!」
にこにこ。
「翼くんのヨーロッパデビューが決まったって教えてくれたの、君だよ?」
「だ、だ、だからって、来ることないだろ、しかもパリに!」
「一緒に行きたかったんだよ、君と」
知らない人が聞いたら、仲のいい友人同士の会話に聞こえるかもしれないが、断じて違う! 岬は気が遠くなりかけた。
試合は明日日曜日の午後、隣国はリバプールで行なわれるアウェー戦だ。岬はその時にはきっと応援に行くから、と早くから約束していた。監督から耳打ちされて、翼がすぐに連絡してきたのもそのためだ。
「パリからユーロスターだけで3時間かかるんだよ? 日本から来るなら最初からロンドンに飛べばいいのに、もう!」
「まあまあ」
岬の抗議は聞き流し、三杉はコーヒーショップでコーヒーを買ったりなんかしている。なお出国審査は既に通過済みだ。
「ほんとにもう、唐突なんだから…」
岬もポンドに両替などしながら文句を言い続ける。ユーロはもちろんイギリスでは使えない。
「楽しみだねえ。ね?」
いったい楽しみなのは翼の応援をすることなのか、岬と旅をすることなのか。
後者でないことを岬は強く強く願い、1階のホームから乗車する。これで3時間弱。ロンドンでは駅の異なる乗換が必要だがリバプールまで2時間ちょっと。余裕で今日じゅうに着ける。
「はい、君もどうぞ、岬くん」
「…どうも」
さっき買ったコーヒーを岬にも渡し、三杉は嬉しそうに笑った。旅の始まりだった。
ロンドン・ユーストン駅は主要道路から少しひっこんだ位置にある。昔は壮麗な門があったそうだが、今はシンプルなコンクリートの建物だ。ユーロスターの終着駅セント・パンクラス駅が城と見まがう大仰な建物なのとは大違いだ。
タクシーでもよかったのだが、徒歩で20分くらい。信号など考えればバスやタクシーとも変わりなさそうだ。2人揃って荷物は小さいバッグだけだったから、歩きたいと三杉が主張したのもあって歩いて移動する。
体育館並みに大きいコンコースで空港のような時刻表示板を探し、乗車ホームが決まるのを待つ。
「ふふ、小動物みたい」
「なに?」
「いや、なんでも」
フェレットかなにかに似た顔の列車で、三杉は何かを連想したようだ。岬がふくれる。
「はいはい、途中停車駅は3つだけ。2時間10分で着くって」
そっぽを向いて、岬はつぶやいた。
「東京ー京都間の新幹線みたいだね」
だが、新幹線のようにはいかなかったのである。
「――名古屋まで着いたのはいいけど、三重県のほうへ迷い込んだみたいになっちゃったねえ」
「どこが名古屋だって?」
走り出してそんなに経たない頃に、乗客は架線の故障を知らされた。同じ会社の、別の路線を迂回してリバプールに向かうという。時間は少々余分にかかるが、ここまではよかった。
続いて車両に不具合が起き、途中駅で列車が運行打ち切りと決まった。このあたり、産業の盛んな地域だったらしく路線は不必要なほどに多い。乗り継げば北に向かうのに不自由しないとのことだった。
「これのどこが!」
ぎゅうぎゅうの車両の通路で、岬は小さく悲鳴をあげた。
打ち切りになった列車は幹線の特急クラスで編成も長かったから、乗客数もそれなりに多かった。その人数が一斉に小編成のローカル列車に押し込まれたのだ。大変な混雑となった。
「これは山手線以上だな」
ただの満員電車なら日本で慣れているが、週末の長距離客がめいめいに大きな荷物を持っている。さっきまで余裕で座れていたのに、これでは通路に立つのもままならない。
三杉の言うとおり、人と荷物のカオス状態だった。
「不思議なのは」
岬がかろうじて顔を上げた。
「乗客が誰もパニックになってないってことだよ。パリなら暴動になってる」
「まさか、これが『よくあること』なんじゃないよね」
そう思っても無理はない乗客たちの落ち着きぶりだった。
が、彼らは気づかなかったが、これはイギリス人いやイングランド人の悪癖、「悪い意味で紳士的」であるせいらしかった。つまりパニック的な状況になるほど、彼らは平静でいようとするのだ。たとえ内心ではあせっていても平気なふりをしたがる国民性というか。日本語で言う「紳士的」というのはたぶん意味がズレていると思われる。
「君と相性がよさそうだね」
「それはどうも」
などとやりとりしているうちに、次の乗継となる駅に着く。
「ふう、これでやっと関西本線か」
「違うでしょ」
指示によると、さらに北に向かう人、別のルートを目指す人、と少しずつ分かれることになるらしい。助かる。京都を諦めてJR難波に向かうわけではないが。
「あ、ちょっと待って」
ホームを移ろうとした岬に、背後から呼びかける。
「あのお婆さん」
「あっ」
同じ列車から降りたと思われる年配の太った女性が足元をふらつかせ、倒れる寸前になっていた。気づいた岬が手を伸ばす。
かろうじて倒れるのは防げたが、もう立ち上がるのは無理、という状態だった。大きなトランクを2個も持っていたがこちらは三杉が押さえて散乱を止めた。
「水を、せめて…」
バッグに入れていた飲みかけのペットボトルを応急処置として飲ませる。
「――あ、ああご親切に」
「大丈夫ですか? 乗換えはどっちですか?」
お婆さんの差し出す切符を見て、彼らとは別の、しかし北行きのもっと零細な路線と知る。2人は無言で目を合わせた。
「まあ、こっちからも行けないことはないらしいから」
「そうだね」
言い訳っぽく言い合って、2人は小さい駅を降りた。
「すみません、ほんとにすみません」
幸いにもお婆さんの目的駅はその路線のすぐだった。一緒に降りて手を貸す。お婆さんの家は駅の裏手だった。
あの混雑で血圧が不安定になって意識が遠のいたそうだが、持病の薬を飲んで落ち着いたらしい。お婆さんは何度も頭を下げた。
「あの混みようじゃしょうがありませんよ。じゃ僕らは次の列車で…」
「あ、あのう――」
恐ろしいことを聞いて2人は凍った。あれが最終だったのだという。今日は土曜ダイヤ。本数が極端に少なく、夕方で終わりなのだと。そして明日日曜は…。
「1本もないですって?」
「そんなバカな」
このあたり、貨物列車は定期的に通るが、旅客用は日曜完全運休なので住民は車に頼っているのだそうだ。だがお婆さんは一人暮らしで車の足はない。
「ちょっ、明日の試合…」
今日はもう諦めるとしても明日の日曜はどうしてもリバプールに行かなくてはならない。
「ど、どうしよう」
「待てよ。もしかして」
三杉はスマホを手にしていた。何を検索したのか。
「見て、ここ」
地図アプリを示す。かろうじて Wi-Fi が来ていたらしい。岬は目を丸くする。
「保存鉄道!?」
「観光用だから、土日も走ってる。いや逆に、土日でないと走ってない」
ここの鉄道と並行するように、別の路線がリバプールへの途中駅と繋がっていた。というよりかつての廃線を、保存鉄道として再生させたのだ。
「少し行けば駅があるようだ。ええと、タイムテーブルはここを10時。よし、乗換駅からリバプールへ正午くらいに着ける!」
「よ、よかった。翼くん――」
いや、翼はこんな目に遭っている岬のピンチなど知らずにいるだろう。それよりも明日の試合が大事だ。
お婆さんは喜んで客用寝室を提供してくれた。余り物で悪いが、と断って夕食と朝食も。
ダブルベッドでもめたが、そこは目をつぶる。
準備を済ませ、保存鉄道の駅に歩くことになった。見ると、お婆さんが庭から駆けてくる。
「坊ちゃんがた」
手にしていたのはバラの花だった。
「こんなものしかなくて」
今年最初のバラだから、と白バラのつぼみを束にして手渡された。
「坊ちゃんだって」
道を歩きながら岬はくすくす笑った。
「僕らのこといくつだと思ったんだろ」
「さあね。十代前半とか。困るなあ」
日本人は西洋ではどうしても実年齢より若く見られてしまいがちだ。
問題になるとしたら、鉄道料金だろう。イギリスの鉄道は15才までは子供料金なのだ。もっとも、境目の子供は顔写真付きの身分証明書が必要だが。もちろん岬三杉の両君は正直に払いましたとも。
「うわあ、蒸気機関車」
彼らの乗った保存鉄道は蒸気機関車だった。もっとも、ディーゼル車と半々に運行しているのだが。彼らは運がよかったらしい。
客車も100年以上昔のものをきちんと補修して使っている。貫通路のないコンパートメントが連なっていた。
「ビンテージってやつか」
「馬車の時代を引き継いでるね」
コンパートメント自体が馬車の延長である。一つごとにホームへの出入口があり、ドアの開閉は従者に任せるから取っ手は外側にしかない。岬は座席に深く沈んで、バラに顔をうずめた。
「翼くんにあげるんだ。ひどい遠回りの証拠さ」
「そうだね、翼くんのデビューにぴったりだしね」
「え?」
つぼみのうちは白バラに見えるが、実は開くと花芯ほど濃くなるピンクが広がるのである。
「エスペランサ、希望。ぴったりだろ?」
「三杉くん――」
目が少しずつ険しくなる。
「なんでバラの品種なんかに詳しいんだよ!」
「紳士だからね。悪い意味で」
彼らが届ける希望。翼の前で開くであろう希望だ。
帰りのルートはリバプールからパリまで、飛行機でたった1時間半だった。
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