遠征先で、変に風邪をこじらせてしまった。
「熱がある!」
と、松山が驚くくらい、僕は熱など出すことは少なかった。
フィジカルコーチが、苦笑しながら風邪薬を出してくれた。
「君でも風邪を引くんだね」
と失礼な冗談を言いながら。
ホテルで居室を独占して一日休ませてもらった。薬が効いたのか、よく眠った。1、2度水を飲んであとはずっとベッドから出なかった。
そして妙な時間に目が覚めた。深夜過ぎだった。熱っぽさはなくなっていたが、食欲があまりないところを見ると、まだ本調子には遠そうだ。
ふと隣に目をやると、隣のベッドは空だった。使った痕跡もなかった。同室は松山だったが、風邪がうつらないように他の部屋に移動したのだろうくらいにしか思わなかった。
が、そうではなかった。
部屋に、変な気配があるのに気づいた。眠気はまったくなく目が冴えていた僕は、ベッドに起き上がったのだが、カーテンから敷地の夜間照明が漏れているのを見てしまったのだ。
なぜカーテンが?と思ったのは一瞬で、ベランダに人が出ているのに僕は気がついた。
松山だった。
真冬ではないとは言え、深夜に外にいるとは信じられないことだった。
思わずぎょっとしてしまい、身を乗り出した。
すると、それが聞こえた。あえて抑えた、小さい声で、松山は誰かと話していた。僕は息をのんだ。
話していた? そうだろうか。そう思ったのは僕の思い違いで、それは僕のわからない何かだった。言葉ではなく、声…?
ベランダとの窓は閉まっていたから、カーテン越しに松山の後ろ姿しか見えず、声ももちろんほとんどわからない。
夜空に向けて顔を上げ、松山は動かないまま何か声を出している。僕は窓のところまで近付いた。
「――松山」
呼ぶと松山は弾かれたように振りかえり、ベランダの窓に手をかけた。
「わりぃ、起こしたか?」
「いったい、何を…」
僕の声は聞こえなかったのか、驚いた顔から笑顔になった松山はすぐに部屋に入ってきた。
「気分はどうだ? 顔色はよさそうだな」
額に手をやり、その間だけちょっと難しい顔になる。
「君、何を」
「え?」
安心したのか手を離し、枕元のライトに手を伸ばした。
「何もしてねえぜ? 眠れなかったから、ちょっと外に出て空を見てたんだ」
嘘なのは明らかだ。何よりベッドを使った様子さえない。
自分でもそう思ったのか、松山は誤魔化すように笑った。
「腹へってねえか? なんか食うか?」
「いや――」
僕は彼の嘘につきあった。そうするしかなかった。
「水がほしいな。体がまだ要求しているらしい」
「いいぜ」
枕元の水差しの水がほとんど残っていないのを見やって、松山は部屋の冷蔵庫に向かった。ゆっくりと栓を開け、ミネラルウォーターをコップに注ぐ。そして僕がそれを飲むのをじっと見守った。
コップを置くのと同時に、松山が僕の両肩をつかみ、ベッドに押し倒した。
「よかった。ほんとによかった」
二人分の重みで、ベッドが余分に沈んだ。
「松山?」
「一緒に、入れてくれ」
言うより先に、毛布にもぐり込む。
「どうしたんだい?」
沈黙が続き、なかなか返事はなかった。しばらくしてやっと、振り絞ったような声がした。
「――おまえが眠ってる間、こわかった」
毛布の下で、松山は僕にしがみついた。
「こわかったんだ」
熱を出した僕より松山のほうが細かく震えていた。体も冷たかった。
「だからって」
「うん」
松山は繰り返した。
「あいつが、来てたんだ」
「え?」
松山はそれ以上何も言わず、僕をぎゅっと抱きしめ続けた。
「松山?」
しがみつく腕にわずかに力が入る。松山は顔を僕の体に伏せたまま、こもった声で答えた。
「あれ、俺の友達なんだ」
「――友達と、ずっと話していた?」
自分で口にして、背がすっと寒くなった。
友達と言っている声に何か凍るような響きがある。
「あいつ、俺の言うことなんかきかないから。そうしたいと思ったら好きなようにやるから…」
松山は言葉を切った。
「おまえを連れて行っちまうかと――思ったんだ」
「友達、なんだろう?」
松山の言うことは不思議なことだらけだった。
「うん、ずっと昔からいる」
やっと顔を上げた。
「風の中に、声がするんだ。遠くから、呼ぶんだ」
誰が、とはどうしても聞けなかった。あの時聞こえたのは松山の声だけだった。聞こえなかったのだ、他には誰の言葉も。
それでも松山は笑顔を見せた。弱弱しい、頼りない笑顔だった。
「けど大丈夫だと思う。説得しといたから」
意味がわからなかった。
松山は、大丈夫大丈夫と繰り返し、ようやく眠りに落ちた。
翌朝、驚いたことに雪がうっすらと積もっていた。この土地でも異例の早さだという。
練習が始まる頃にはもうすっかり消えていた雪に、松山は目を細めた。
「あいつの、返事だ」
いい返事か、悪い返事かわからなかったが。
松山は振り返って、笑った。
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