「もう起きてたんですか」
まだ日も昇らない早朝の宿舎。しかし空は晴れて十分に明るい。ベランダに立つ日向は敷地の向こうにその一部を見せているスタジアムを遠く眺めていた。
背後に足音が近づく。
「昨夜は遅くまでつき合わせてすいませんでした」
「かまわねえよ」
現われたのは若島津だった。が、その背後にチームのメンバーがぞろぞろ集まっているのに気づき、日向はちょっと眩しそうな目になった。
「昨日はおまえらにあんなこと言わせちまってすまなかった」
「え」
まさか日向の口からそんな謝罪の言葉が。そう思っているに違いない部員たちの間からざわめきが出る。
「俺はもっと自分の責任ってもんを考えるべきだった。俺の勝手のせいでおまえらにあんな負担を掛けて。キャプテンとして謝らせてくれ」
「そんな、キャプテン、やめてください」
誰からともなく声が上がって、そうだそうだと賛同の声が重なる。
「キャプテンにキャプテンの責任があるっていうなら俺たちにも俺たちの責任があるんです。謝らないでください」
「…そうか」
若島津の言葉に他の部員たちもうなづいているのを見て、日向は一度視線を落とした。そして改めてまっすぐに向き直る。
「試合に出られなかった間、おまえらの戦う姿を見ながらずっと考えてたことがある」
言葉を切って、さらに考える目になる。
「俺たちはずっと全力でここまで来た。何も疑わず。でもそれでいいのか、もう一度考えたんだ。もっと客観的に見直すべきじゃないかってな」
「というと?」
僅かずつ皆当惑が浮かび始めたのに気がついて、代表して若島津が口をはさむ。
「俺たちはひとつになるべきだ。チームであり、家族みたいなもんだ。上下とか関係ねえ。そのしるしに…」
いいことを言っているようで、どうも焦点がズレ始めているのに次第に嫌な予感がじわじわと。
「学年も立場もなしだ! 俺のことは小次郎と呼べ。俺もおまえたちを名前で呼ぶから、おまえたち同士もな!」
「ええええっ!?」
「そして、南葛のやつらは全員『くん』付けでいい。もちろん『あいつ』もだ」
家族は家族、敵は敵、と繰り返す日向に全員が絶句した。
あいつとは…? そーっと顔を見合わせる東邦イレブンである。そう、日向の、東邦の天敵、大空翼のことだった。
「ええええっ!?」
もう一度、悲鳴が口々に。
それは決定事項なのか?
試合開始まで、あと数時間だった。
「なあ、なんか東邦の連中、態度が変じゃねえ?」
「だよな。緊張してるのかな」
「緊張ってのとはちょっと違う、ような」
ささやきあう南葛イレブンにも異変は伝わっていた。特にさっきからぽかんとしたままの石崎は。
『よっ、石崎くん』
『え?』
『石崎くん、負けないぜ?』
『やあ、石崎くん』
通路で整列しようとしていた時、石崎は東邦の何人かから小さくひそっと声を掛けられていたのだ。違和感ハンパない。石崎くんなんて言われるのはクラスメイトかマネージャーの女子くらいなのに。
石崎は知らなかった。東邦イレブンたちはくん付けミッションに慣れようと、まずは当たり障りのなさそうな石崎で練習していたのだ。
『あ、若島津、よろしく』
『…ああ、よろしく森崎くん』
同じく整列前に若島津から目を反らしつつそう言われた森崎も既に涙目だ。
『ぷ、井沢くん、ども。来生くん、がんばろ? 滝くん、よろしくな。うぷぷ』
中にはもともと態度のふざけたヤツもいたが。
「覚悟しろよ、大空くん。今年こそ俺たちが勝つ!」
「はあ?」
そしていよいよピッチ上で両キャプテンのエールの交換。の、はずだった。
「いいか、一樹。キックオフのボールはすぐに俺に寄越せ。わかったな」
「お、おう、ひゅ…小次郎!」
そうか、岬になった気になればいいんだ。反町はこそこそとそう考えた。いや待て、反町。君はまだ岬には会ったことはないはず。
「行けー、俺のシュート!」
いきなり放たれた日向の新シュートはブロックに飛び込んだ翼の頭をわずかにかすめて南葛ゴールのポストを襲い、そしてあえなくパンクした。
それを間近に目撃した森崎は、ボールの代わりに自分がそうなっていたかもと思い浮かべて震え上がった。
「さすがは日向くん、さっそく打ってくるとは」
「今度こそおまえを破る。大空くん!」
さすがと言われた日向は心の中でもちゃんと「くん」をつけていた。
「大空くん、俺はもうおまえに負けるのはたくさんなんだー!」
今度は声に出して吠える。そばでこれを聞いてしまったDF陣は凍った。敵も、そして味方も。
「行きますよ、タダシ。ユタカ、左から上がってください。それっ」
タケシは生き生きしていた。ミッションなんのその。なにしろ2年上の先輩を呼び捨てできるのである。自分がタケシと呼ばれるのに変化はないし、そのぶんダメージは少ない。
「…なんかさ、タケシにあんなふうに言われてもあまりショックはないんだよな。むしろオフクロ感あってさ」
「そうそう、オカンなんだよ完全に。年下でも」
なお高島は関西育ちである。
「秀人、俺に寄越せ!」
「はいっ、こ、こじろう」
まだ漢字で呼べない小心者もいるようだ。
「か、監督、助けてくださーい」
アイコンタクトですがるような視線がたびたびベンチに送られるが、北詰監督は不動だった。
「私はおまえを出すことに決めた時点で全てをおまえに預けた。おまえの思うように勝利を目指せ、小次郎」
かっこいいことを言っているようで実は丸投げだ。さすがだ、マコ。
「け、健、ナイスキャッチ」
「あの位置でブロック助かったぜ、博」
ゴール前ではまだギクシャクとした会話が。若島津の頭に浮かぶのは今も機会ごとに稽古をつけてもらっている父親だった。それとも兄か。もっとも父はほとんど言葉にしない。「よし」「だめだ」くらいで。「いよ~。健、ナイスせーびんぐ」なんて道場でおちゃらけるのは兄だけだ。
これで本当にチームの一体感なんて生まれるのだろうか。
「勝治、こっちだ」
「行くぞ、恒夫!」
「左だ、清!」
開き直ってだんだんと乗ってきたか。逆に、南葛の選手たちの気力は肝心なところで空気が抜けていく。
「なんだってんだ、あいつら」
「ノリがわからん」
精神攻撃か? 体力的には五分五分だったが、気力は削られる。
ピッチの中央では満身創痍のつ、大空くんが精神力だけでかろうじて駆けていた。南葛イレブンはそれをフォローしつつ、相手チームのいつにない奇妙な殺気にさらされて、とにかく空気が怖い、いや危うい。翼はいつ倒れるかわからない。がそれ以上に本人には鬼気迫るものがある。どこで打ってくるかわからないドライブシュートがゴールに照準を定めながらも、しかしそれも今や限界を迎えようとしていた。気力が、立つ体力にさえ負けようとしている。前を向くことすら。
「大空くん」
日向はそれを眺めて立っていた。
「おまえが万全ではないのはわかった。だがその万全ではないゲージの100%におまえは振り切っているか? 自分で限界を決めて、そこに立ち止まろうとしていないか?」
日向には珍しい疑問符だった。大空くんと呼ぶことで、自分の勝ちへの執着を一旦切り離せたのか。相手を、相手として個人の存在をそこに見たのか。
「自分を見ろ、大空くん。おまえはそこまでで終わりなのか。それに気づけないというなら、俺が」
自分の前に来たボールに、渾身の力を込める。
「俺がおまえに伝えてやる。これが、俺の全力。おまえの全力はどれだ!」
南葛ゴールにではなく、翼に、一直線にそのシュートは向かった。全身に真正面に日向の本気が炸裂する。翼はその衝撃に吹き飛びそうになりながら、はっと目を瞠った。
「来い、大空くん」
「そうか。…俺は大空翼だ」
なんだか微妙に食い違いながらも、二つの魂は響き合ってしまった。
翼は再び走り出し、ピッチの上に熱く勝利への熱が渦巻いた。それぞれのチームの、選手たちの戸惑いや苦悩を置き去りにして。
シュートを打たれたらそれを打ち返す。味方のシュートを阻止するタックルを見舞う。ボールを止めたキーパーに飛びついて止める。といったよくわからない、わかりたくない死闘の果て、ついにホイッスルが長く響いた。
前後半と延長戦。同点引き分け。二校同時優勝である。
南葛V3と東邦初優勝の瞬間だった。
「俺たち、勝った、のか…」
「やったぞ、V3だ!」
「やっと、やっと、初優勝だ!」
声が喜びに弾ける。それぞれがそれぞれに走り、飛びつき、抱き合う。
「母ちゃん、俺やったよ!」
「わああ、ママ~、ありがとう!」
なんだかおかしい。東邦の絆は間違った方向に?
選手たちはみなタケシに駆け寄って感涙にむせんでいた。普段はそばにいない母親が目の前に現われたかのように。
「皆さん、やりましたね! 僕、嬉しいです!」
もみくちゃにされながらも、これで平常心のタケシもどうなんだ。
「大空くん」
「…日向くん」
その輪から離れたピッチの中央で、翼が膝をつき、そばに日向が歩み寄っていた。
「やっぱりサッカーはいいな」
「そうだね、俺たちをこんなに夢中にさせてくれて」
夏の晴れ渡った空の下、二人はそれを上回る晴れ晴れしい顔で見つめ合った。
「かーちゃんって大事だな」
「うん?」
交換し合ったユニフォームはそれぞれの手に。
それを洗濯する二人の母にも、祝福を。
【おわり】
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