「おい、新田」
屋上の一角に佐野が姿を現わした。
「そろそろ晩メシだぞ。こんなとこで何やってる」
「へへ」
屋上のネットフェンスに張り付いて、新田は顔だけこちらに向けた。
「ここ景色いいからさ。昨日も来てたんだ」
「まあ、いいのは同意だけど」
静岡の海沿いの町。南葛からもさほど遠くない場所に何面もグラウンドを持つスポーツ総合施設だ。今夏はここで合宿が行なわれた。
白い砂の海岸線が遠くに見え、大きな川が海に出る河口もわかる。あとは輝く緑の農地、茶畑だ。ここからは見えないが、裏手からは富士山も遠くに見える。
そしてすぐ下にはゴールの置かれたフィールド。彼らがここ数日を過ごしてきたフィールドが見えていた。
「でもそういつまでも見てられるもんか?」
新田は景色に目を戻してまた頬杖をついた。
「好きな子、見てたんだ」
「え?」
新田が向こうを向いたままもごもごと小さな声でつぶやいたので、佐野も驚く。
「いるのか、どこどこ?」
「――教えてやんない」
確かにここの近くには学校が多く、共通の通学路になっている。茶畑をぬって歩いている夏休みの部活帰りの人影は絶えない。
「中学の子? それとも高校だったり?」
新田はこちらを見ない。
「風が、気持ちいいな」
「はあ?」
話をそらすにしても無理やり過ぎないか?
「暑いけど、風が吹くと気持ちいいよな」
視界には、風に揺れる長い髪。新田は気づかずため息をついた。
「ああ、まあもう夕方だしな」
「じゃ、行くか。メシ」
やっとフェンスから離れて、新田は笑顔を見せた。
「明日、最終日だろ? おまえ、新幹線?」
「ああ俺は――」
屋上に、また静けさが戻る。日暮れは、まだ少し遠かった。
合宿最終日は短いミーティングの後、割合早めに解散となる。遠隔地からの参加者を考慮してのことらしい。それに対して今回は静岡だったので、半数近くが近隣のため時間を持て余す。
新田は帰宅前に少し体を動かそうとランニングに出た。海岸サイクリングロードを東に走って人出のあまりないあたりまで。砂浜に出てクールダウンする。
うつむいて足元を見ながら、波打ち際で息をついた。
足元までたまに水が近づく。靴先を濡らしては素早く引く波。
しばらくその体勢のまま、新田は寄せる波に目を奪われていた。と、声がかかる。
「え?」
体を伸ばしてそちらを見ると、サイクリングロードのあたりにだらしない服装の兄さんが数人、こちらを見ていた。
「おねえちゃん、そんなとこに立ってると波にさらわれるよ?」
「ひとりで何やってるの。俺たちと遊ぼうよ」
一瞬、意味がわからなかった。一息置いて、おねえちゃんというのが自分のことだと気がついて新田はかっとなった。
「バカヤロー、ほっとけ!」
「おいおい、つれないねー」
ほんとに女だと間違えているのか、それともわかっていてからかっているのか。どちらにしても関わり合いたくはない連中のようだ。
「とにかく行こう行こう」
「迎えに行こうかあ?」
中の一人二人が仕切りを乗り越えかけたその時、横からざっと黒い影が動いた。
「やめろっ!」
新田も、男たちもいきなりの叫びに動きを止める。
「さ、佐野?」
「おー?」
飛び出した人影、それは佐野だった。ダッシュで駆けて来て、新田の前に立つ。
「なんだなんだあ? 女の子がもう一人来たぜ?」
「こっちもカワイイじゃん?」
大丈夫か、こいつら。
佐野は両腕を広げて、肩で息をしながら新田を背に立ちふさがっていた。
「いいねえ、二人ともこっちおいで?」
男たちはにやにやしながら近づこうとする。昼間からヨッパライか?
「逃げるぞ」
低く言って、佐野は新田の手をつかむ。そしてダッと波打ち際を横に走り出した。
波が寄せるたびに二人が走る足元で水がはねたが、構ってられない。男たちの声はしばらく背後に聞こえていたが、だんだんと遠くなった。
そして、何人かがサーフィンなどに集まっているところまで来た。さっき新田がランニングでスルーしたあたりだ。家族連れも混じって、こちら側は人出があるようだ。
「佐野、おまえ、なんで」
やっと足を止めて二人は息をついた。手も、離れる。
「帰ったんじゃなかったのか、もう」
「観光してた」
へ?と顔を見る。佐野は砂の上に腰を下ろして波の向こうに目をやった。新田も座る。昼に近い時間帯、波から離れた砂はもう熱い。
「今日一日はフリーだ。だから観光してた」
「なんでフリー」
昔の街道筋の寺や蔵元、城址の石垣…と佐野は数え上げて隣の新田を不機嫌そうに見た。
「おまえのせいで予定が全部ボツだ。あの向こう側の町だったのに」
「知るか、俺のせいかよ」
新田は逆に笑い顔になる。一緒に砂に座って、こうしているなんて。
「次籐さんが、お祖父さんの家に寄ってって畑の手伝いするって、もう1泊。だから俺はフリー」
みかん農家で夏の摘果の人手がいるらしくって、と説明して、新田のニヤニヤ顔を睨む。もう少しこの土地にいたかった、とは口に出さない。
「浜辺も見たくて先にこっち来たらおまえがあんなとこでナンパされてるから」
「ナンパのわけあるか。けど助かった、ありがと」
次籐の母親の実家が南葛の隣町にある。西本ゆかりの祖父母である。夜は泊めてもらえることになっている。
「ねえ、おねえちゃんたち」
そうやって話している二人の背後から声がした。
「あっちで遊ばない? 砂掘り、おもしろいよ?」
「はい?」
プラスチックの小さいバケツを持った子供が二人をじろじろと見ていた。
「おねえちゃんだとー?」
新田はぬっと立ち上がった。幼稚園くらいのその男の子を威圧感たっぷりに睨み下ろす。佐野は呆れた。
「静岡県民は視力がイカレてんのか? 一日に2回も俺たちをナンパするなんて」
そして同じく、よっこいせと立ち上がった。
「ボウズ、付きあってやるよ。けどその前に海の家連れてけ。まずアイスクリーム食ってからだ。おにいちゃんって言え。そしたらおごってやる」
それは、中学生が幼稚園児をナンパしていることにならないのか? 子供はわあいと叫んで先に駆け出したが。
潮風に髪が揺れる。その首筋の髪先を横目に見ながら、新田は後を追う。
日はもう高い。彼ら二人を今日も照らす。
「俺が屋上から見てたの、おまえだよ」
新田は口の中でつぶやいた。
「毎日見てたおまえの残像を見てたんだ、あのピッチの上の」
「え、なんか言ったか?」
太平洋の波が寄せる。また遠く離れる彼らも、海は繋がっている。
心が繋がるのは、果たしていつなのか。
end
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