2・答えは出ていた。
「いらっしゃいましたよ」
「先生、ごぶさたしてます」
案内の看護師の背後から三杉は現われた。出迎えた医師も笑顔で握手する。
「ああ、三杉くん、ひさしぶり。相変わらずの活躍だね」
「いえそんな。全部先生のおかげですよ」
「何を言ってるんだ。この間の選手権でも大会MVPと得点王のダブルタイトルだったじゃないか。ヨーロッパにはいつ発つんだね?」
「来月です。それで出発前に先生にご挨拶しておこうと」
「そうか、いよいよか。新しい場で新しい活躍、期待しているよ」
「はい、がんばります」
穏やかな笑みの中に決意をにじませて三杉はうなづいた。
「これで高校卒業か。早いものだな、10年、いや12年か、あれから」
「はい」
三杉淳。高校サッカー界の、いや今や日本サッカーの期待の星である。彼は12年前この病院で大手術を受け、幼い頃からの先天性の心臓病を克服したのだ。小学校時のサッカークラブを経て中学からはプロリーグのユースに所属しキャリアを重ねてきた。そう、輝かしい実績とともに。
「わたしのおかげと言ってくれるのは嬉しいが、全部君の才能の賜物だからな。生まれ持ってのサッカーセンスと、強運と」
「先生」
すっかり髪に白いものが増えた医師は強くうなづいた。
「今だから言うが、あの手術は君がその運で乗り越えたんだ。成功率は決して高くなかった。親御さんにもそう伝えていたんだ、良くて現状維持だと」
幸運な偶然が重なったのだと、医師は感慨深そうに言った。彼自身驚く結果だったのだと。
「すっかり健康体だな、もう。これなら安心して海外クラブに送り出せる」
「ありがとうございます」
もちろん三杉は毎年の検診は今も欠かしていない。だがかつてそれほどの大病を抱えていたとは、知らない者が多いくらいだった。
「そうだ、君がいた小児棟、老朽化して新しい場所に改築したよ。以前のはもうすぐ解体するから見ておくかい?」
「はは、さすがにいいですよ」
三杉は笑ったが、帰りに外来棟を抜ける時にその話を思い出して窓の向こうに目をやった。彼が入院を繰り返していた小児棟はここの並びに位置していた。
「あれっ、変だな」
風景に違和感がある。
「ここに、木がありませんでしたっけ」
「ああ、そう言えば」
医師への挨拶と一緒に当時から勤務する看護師長にも会いに行って、そのまま並んで廊下を歩いているところだった。
「ええ、ええ、あの木ね落雷で燃えちゃったのよ。12年前、あなたの手術の日に」
手術中も手術後のICUから直接転院した時も三杉自身はそのことを知らないでいたのだ。近くの設備にも被害があってけっこう騒ぎになっていたそうだ。
「そうか、もうないのか」
結局三杉は中庭に出た。当時の病室の窓からいつも見ていた木。青々と茂っていた木は草の間にかろうじて痕跡を残すだけになっていた。
「ダメダメ、こんなに残しちゃ」
唐突に思い出す。
「たくさん食べて、力をつけなきゃ」
「でも…」
よく世話をしてくれた一人の若い看護師。専属の見張りか、と疑うほどに。
「ね、内緒でオヤツ持って来たの。一緒に食べましょ」
「えー、これが?」
小魚を煎った手作りオヤツをこっそり出してきたりした彼女。元気がない時もそれに気づかないような明るい調子で何かと構ってくれていた。
「そうだ、鬼ごっこしない? じゅんくん追っかけて? 私、隠れるから」
「もう、それってかくれんぼじゃないか」
なかなかやる気の出ないリハビリの時間に、遊びに誘ったり。
「そうだ、今も勤務してるなら」
看護師長のところにもう一度行って確認する。彼女にもお礼を言っておきたい。
「え、何人か当時の子残ってるけど、そんな人いたかしら」
看護師長は首をかしげた。
「あおば…?」
胸の名札には平仮名でそう書いてあったと記憶している。が、記録を確認までしてもらったのに何もわからなかった。覚え間違いだろうか。
もう一度窓から中庭を見る。きらきらと早春の日差しが明るい。幼い日の、辛くても楽しかった記憶。あれはなんだった?
三杉は立ち上がった。簡単な挨拶で別れて後は足早になる。敷地に出るともう走り出した。
何の不安もない輝かしい道。約束された将来。僕が歩んできた人生にはそんなすべての幸運が満ちていた。平穏な、まっすぐな道のりが。
なのに。
何かがない。誰かがいない。
そんな理由のない空白感が。そして大きな違和感が。
建物の前まで来てもう一度振り返る。そして気がついた。
そうか。僕の人生は本当は。闘いや苦悩や、挫折だらけだった。傷ついて、時に涙を流し。
でも。一人じゃなかった。いつもそばについていて、一緒に闘い一緒に苦悩し、一緒に涙を流した。そして一緒に何度でも挑み続けたんだ。
その生命と引き換えに彼に別の人生を与えようとした一本の木。葉を揺らして、そこにあった瑞々しい力。
ゆっくりと歩を進める。彼は大人の姿になっていた。
敷地のベンチで、彼女はうとうとしていた。まだ着替えもせず白衣のままで。三杉はその側にそっと座った。
「やだ」
やがて弥生は目を覚ます。かたわらの三杉に気づいて恥ずかしそうに笑った。
「起こしてくれればよかったのに」
「いいよ、疲れてたんだろ?」
「もう若くはないってことね、こんな調子じゃ」
弥生は座ったまま伸びをした。三杉は横から覗きこんで、ぎゅっと抱きしめる。
「ねえ弥生、旅行に行かないか。長めの休暇を取って」
「ハネムーン?」
抱きしめられたまま弥生は笑った。
「いいわね。ヨットでゆっくり旅するとか」
「それいいアイディアだ。瀬戸内海や、小笠原諸島や」
さらに考え込む。
「アドリア海にエーゲ海とか」
「私はカリブ海がいいわ。海賊気分になれるから」
「おいおい」
「ほんとにそんなして休みがとれたらねえ。たぶんクビになっちゃう」
「青葉さーん」
向こうから声がかかった。
「非番なのにごめんね。ちょっと手が足りなくて。少しだけ手伝って」
「いいわよ」
手を振って別れ、病棟に駆けて行く。同僚がこそっと囁いた。
「あれって彼氏さん?」
「そうよ」
くすくす笑いながら弥生はちらっと背後を見た。
「私の、一生の彼氏」
鳥が舞い上がる。空の高いところから何が見えただろうか。日はゆっくりと暮れていく。青い海原が、どこか遠くでさざめいていた。
END
「いらっしゃいましたよ」
「先生、ごぶさたしてます」
案内の看護師の背後から三杉は現われた。出迎えた医師も笑顔で握手する。
「ああ、三杉くん、ひさしぶり。相変わらずの活躍だね」
「いえそんな。全部先生のおかげですよ」
「何を言ってるんだ。この間の選手権でも大会MVPと得点王のダブルタイトルだったじゃないか。ヨーロッパにはいつ発つんだね?」
「来月です。それで出発前に先生にご挨拶しておこうと」
「そうか、いよいよか。新しい場で新しい活躍、期待しているよ」
「はい、がんばります」
穏やかな笑みの中に決意をにじませて三杉はうなづいた。
「これで高校卒業か。早いものだな、10年、いや12年か、あれから」
「はい」
三杉淳。高校サッカー界の、いや今や日本サッカーの期待の星である。彼は12年前この病院で大手術を受け、幼い頃からの先天性の心臓病を克服したのだ。小学校時のサッカークラブを経て中学からはプロリーグのユースに所属しキャリアを重ねてきた。そう、輝かしい実績とともに。
「わたしのおかげと言ってくれるのは嬉しいが、全部君の才能の賜物だからな。生まれ持ってのサッカーセンスと、強運と」
「先生」
すっかり髪に白いものが増えた医師は強くうなづいた。
「今だから言うが、あの手術は君がその運で乗り越えたんだ。成功率は決して高くなかった。親御さんにもそう伝えていたんだ、良くて現状維持だと」
幸運な偶然が重なったのだと、医師は感慨深そうに言った。彼自身驚く結果だったのだと。
「すっかり健康体だな、もう。これなら安心して海外クラブに送り出せる」
「ありがとうございます」
もちろん三杉は毎年の検診は今も欠かしていない。だがかつてそれほどの大病を抱えていたとは、知らない者が多いくらいだった。
「そうだ、君がいた小児棟、老朽化して新しい場所に改築したよ。以前のはもうすぐ解体するから見ておくかい?」
「はは、さすがにいいですよ」
三杉は笑ったが、帰りに外来棟を抜ける時にその話を思い出して窓の向こうに目をやった。彼が入院を繰り返していた小児棟はここの並びに位置していた。
「あれっ、変だな」
風景に違和感がある。
「ここに、木がありませんでしたっけ」
「ああ、そう言えば」
医師への挨拶と一緒に当時から勤務する看護師長にも会いに行って、そのまま並んで廊下を歩いているところだった。
「ええ、ええ、あの木ね落雷で燃えちゃったのよ。12年前、あなたの手術の日に」
手術中も手術後のICUから直接転院した時も三杉自身はそのことを知らないでいたのだ。近くの設備にも被害があってけっこう騒ぎになっていたそうだ。
「そうか、もうないのか」
結局三杉は中庭に出た。当時の病室の窓からいつも見ていた木。青々と茂っていた木は草の間にかろうじて痕跡を残すだけになっていた。
「ダメダメ、こんなに残しちゃ」
唐突に思い出す。
「たくさん食べて、力をつけなきゃ」
「でも…」
よく世話をしてくれた一人の若い看護師。専属の見張りか、と疑うほどに。
「ね、内緒でオヤツ持って来たの。一緒に食べましょ」
「えー、これが?」
小魚を煎った手作りオヤツをこっそり出してきたりした彼女。元気がない時もそれに気づかないような明るい調子で何かと構ってくれていた。
「そうだ、鬼ごっこしない? じゅんくん追っかけて? 私、隠れるから」
「もう、それってかくれんぼじゃないか」
なかなかやる気の出ないリハビリの時間に、遊びに誘ったり。
「そうだ、今も勤務してるなら」
看護師長のところにもう一度行って確認する。彼女にもお礼を言っておきたい。
「え、何人か当時の子残ってるけど、そんな人いたかしら」
看護師長は首をかしげた。
「あおば…?」
胸の名札には平仮名でそう書いてあったと記憶している。が、記録を確認までしてもらったのに何もわからなかった。覚え間違いだろうか。
もう一度窓から中庭を見る。きらきらと早春の日差しが明るい。幼い日の、辛くても楽しかった記憶。あれはなんだった?
三杉は立ち上がった。簡単な挨拶で別れて後は足早になる。敷地に出るともう走り出した。
何の不安もない輝かしい道。約束された将来。僕が歩んできた人生にはそんなすべての幸運が満ちていた。平穏な、まっすぐな道のりが。
なのに。
何かがない。誰かがいない。
そんな理由のない空白感が。そして大きな違和感が。
建物の前まで来てもう一度振り返る。そして気がついた。
そうか。僕の人生は本当は。闘いや苦悩や、挫折だらけだった。傷ついて、時に涙を流し。
でも。一人じゃなかった。いつもそばについていて、一緒に闘い一緒に苦悩し、一緒に涙を流した。そして一緒に何度でも挑み続けたんだ。
その生命と引き換えに彼に別の人生を与えようとした一本の木。葉を揺らして、そこにあった瑞々しい力。
ゆっくりと歩を進める。彼は大人の姿になっていた。
敷地のベンチで、彼女はうとうとしていた。まだ着替えもせず白衣のままで。三杉はその側にそっと座った。
「やだ」
やがて弥生は目を覚ます。かたわらの三杉に気づいて恥ずかしそうに笑った。
「起こしてくれればよかったのに」
「いいよ、疲れてたんだろ?」
「もう若くはないってことね、こんな調子じゃ」
弥生は座ったまま伸びをした。三杉は横から覗きこんで、ぎゅっと抱きしめる。
「ねえ弥生、旅行に行かないか。長めの休暇を取って」
「ハネムーン?」
抱きしめられたまま弥生は笑った。
「いいわね。ヨットでゆっくり旅するとか」
「それいいアイディアだ。瀬戸内海や、小笠原諸島や」
さらに考え込む。
「アドリア海にエーゲ海とか」
「私はカリブ海がいいわ。海賊気分になれるから」
「おいおい」
「ほんとにそんなして休みがとれたらねえ。たぶんクビになっちゃう」
「青葉さーん」
向こうから声がかかった。
「非番なのにごめんね。ちょっと手が足りなくて。少しだけ手伝って」
「いいわよ」
手を振って別れ、病棟に駆けて行く。同僚がこそっと囁いた。
「あれって彼氏さん?」
「そうよ」
くすくす笑いながら弥生はちらっと背後を見た。
「私の、一生の彼氏」
鳥が舞い上がる。空の高いところから何が見えただろうか。日はゆっくりと暮れていく。青い海原が、どこか遠くでさざめいていた。
END
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